カント以後の存在神学と思弁的実在論(2018/9/19東京神学研究会発表分)

O.序に
私の見るところ、哲学的困惑の多くは、共約不可能とされる領域を設定乃至前提した上でそれらを結び付けようとする倒錯した知的努力―これは媒介の問題と呼ばれています―に類するもののようです。共約不可能―耳慣れない言葉かもしれませんが、取り敢えずは「関係項が共通要素を持たないこと」「関係項を包摂する地平が存在しないこと」と理解してください。例として、無/有、神/被造物、永遠/歴史、本質(イデア、純粋形相)/存在、精神/身体(デカルト)、概念/存在(カント)、自/他(レヴィナス)、言語/世界(前期ウィトゲンシュタイン)を挙げておきましょうか。
さて、「如何にして無から有が生じうるのか?」「人は如何にして神と出会うのか?」「精神と身体の因果関係は如何にして成立するのか?」「如何にしてインクのしみや空気の振動が世界について語るのか?」アポリアに対する応接―何を媒介項とするか―は様々です。概念を主観/存在を客観に割り当てて峻別しつつ直観で繋ぐカント、自同性の必然性に基づく概念と存在の統一を弁ずるヘーゲル、理知の放下と信仰の飛躍を説くキルケゴール、言語と世界は論理形式を共有していなければならないと断じる前期ウィトゲンシュタイン…しかし彼等の努力にもかかわらず、事態が改善したようには見えません。
ここで「そもそも当初の設定乃至前提は哲学的偏見の産物に過ぎないのであって、それらを吟味〜刷新すればアポリアは自ずと解消されるのではないか?」と問うことは理に適っているし、結論から言えば唯一の解決法ではあるのですが、彼等にこの問いを敢行することは【出来ない】のです。理由は単純で、斯様な設定乃至前提に依拠せずして彼等の言いたいこと―創造と分有、魂の不滅、輪廻転生、個体化、瞬間の到来etc―は【言えない】からです。神の存在論的証明も又然り。そして、本質(イデア、純粋形相)/存在の形而上学と様相を巡る幾つかの臆見「可能ならば存在する」「自らに拠って在る必然的現実存在」こそ存在神学を駆動する両輪なのですが、節を改めてその出処と概要を瞥見したいと思います。



1.存在論的証明の基底〜存在神学を駆動する設定乃至前提
古代ギリシャから現代に至る本質(イデア、純粋形相)/存在の形而上学及び神における本質と存在の必然的統一
「存在しない個物や様態の観念は、個物あるいは様態の形相的本質が神の属性に含まれているのと同じように、神の無限の観念の中に含まれていなければならない」―スピノザ『エチカ』第二部定理8
「現実に存在するあらゆる物体あるいは個物についての観念は、神の永遠・無限の本質を必然的に含んでいる」―スピノザ『エチカ』第二部定理45
「ここで私は、存在を、持続つまり抽象的に考えられる限りの存在、いわば一種の量として考えられる限りの存在とは考えない。何故なら私は、存在の本性、言いかえるならば、神の永遠の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じてくるということから〔第一部定理16を見られたい〕、個物に帰せられる存在の本性について語っているからである。つまり私は、神の中にある限りの個物の存在そのものについて語っているのである。何故ならあらゆる個物は、他の個物によって一定の仕方で存在するように決定されているとはいえ、その各々が存在に固執する力は、神の本性の永遠なる必然性から生じてくるからである」―スピノザ『エチカ』第二部定理45注解
「神の中には、存在の起源だけでなく、実在的である限りの本質あるいは可能性における実在的なものの起源があることもまた真である。それはつまり、神の悟性は永遠真理あるいは永遠真理が依拠する観念の領域であり、神なくしては可能的なものから実在性が失われ、存在するものだけでなく可能的なものも無くなってしまうからである」―ライプニッツモナドジー』43
「信じる者は絶望に対する永遠に確かな解毒剤―可能性を所有している。何故なら、あらゆる瞬間に一切が可能である、ということが神だからである。これが信仰の健康であり、この健康が諸々の矛盾を解くのである」―キルケゴール死に至る病
「出来事の紛らわしさとは、それが生起してきたこと、つまりそこに、無からの、〈非存在〉からの、また存在の仕方の多様な可能性からの移行が行われているという点に存する」―キルケゴール『哲学的断片』
「存在神学は、現存在との当にその差異が問われている本質が絶対的に規定されたものと考えられている場合にしか、展開されることは出来ない。従って、存在神学は純粋形相という概念を前提する。―略―あらゆる存在神学にとっても、純粋思想の内容は〔これらの思想が思惟されているということ〕に依存しないのだということが自明でなければならない。全ての存在神学はこの意味ではプラトニズムである」―ヘンリッヒ『神の存在論的証明』
「思想を把握するという行為には特殊な知的能力や思考力が対応するに違いない」―フレーゲ『思想』
「思想は必ずしも非現実的なのではないが、その現実性は物のそれとは全く異質なものである。―略―思想をあるがままに受け取らなければならない。思想は、思考する者によって把握されることなしに、真でありうる」―フレーゲ『思想』
「我々は物を見、表象をもち、思想を把握し或は考える。我々が思想を把握するとき、或は思想を考えるとき、我々は思想を創り出すのではなく、予め存在していた思想に対して或る種の関係に入るに過ぎない。そしてこの関係は、物を見る関係や表象をもつ関係とは異なるのである」―フレーゲ『思想』
「意味の場とは、何らかのもの、つまり諸々の特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域です。意味の場の外部には、対象も事実も存在しません。―略―『存在する』とは、何らかの意味の場に現象することに他なりません。存在論的な観点からすれば、それを人間が経験するかどうかには、副次的な役割しかありません。殆どのものは、単に我々には気づかれずに現象します。―略―私が主張しているのは、存在とは、世界や意味の場の中にある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質に他ならないということ、つまり、その意味の場に何かが現象していることに他ならないということなのです」―マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』
「ここで我々は対象関与的な de re 最初の解釈を提出せざるをえない。私の提案は『神』という言葉で論理空間を理解するというものである。それは思想について思考する者としての我々が、先行的で安定した論理空間に頼らざるをえないのだということを意識する限りでそう言ってもいいだろう。『神』とはこの意味で、自己意識的な論理空間であり、これは論理空間についての我々の意識において分節化される。論理学が『自然と有限な精神の創造以前における、その永遠の本質に内在する神の叙述』であるというヘーゲルを額面通り受け取る為に、私は先行性について取り上げよう」―マルクス・ガブリエル『ヘーゲルのカテゴリーとはそもそも何であるのか?』
ヘーゲルは論理空間の自己把握の為の構造を要求しているのであり、この構造を『神』という古典的語彙が表現していると考えられるのである。そして斯様な『神』の用法は、プラトンアリストテレス、新プラトン主義者においても見出されるのであり、彼等がここでのヘーゲルの言語使用に影響しているのである」―マルクス・ガブリエル『ヘーゲルのカテゴリーとはそもそも何であるのか?』
「論理空間が何らかの仕方で―精神の形式においてであれ、或はチャーマーズネーゲルの思弁物理学の如き、宇宙マイクロ波背景放射における原現象的また原志向的な痕跡という形式においてであれ―自然の中に嵌め込まれるなどということは決してないのであって、逆に自然も精神も論理空間において自身の場所を見出すのである」―マルクス・ガブリエル『ヘーゲルのカテゴリーとはそもそも何であるのか?』
「全ての数学者がそれを認識しているわけではありませんが、〈昔からの archaic 数学的実在〉が存在します。外的世界と同様に、これはアプリオリに組織化されてはいませんが、我々の探索に抵抗し、斉合性を顕にします。非物質的なのは、それが時空の外に位置するからです」―アラン・コンヌ
「私は、研究の対象、例えば素数列と、それを理解する為に人間精神が精巧に仕上げる概念との間に本質的な区別を設けています。〈昔からの数学的実在〉は研究の対象です」 ―アラン・コンヌ


Q:神の内に在る個体の本質或は可能性の永遠性と必然性、我々の思惟とは独立・無関係に自存する純粋思想、汎ゆるものは概念を扱う生物とは独立・無関係に何らかの意味の場において現象しているetc―暫し立ち止まって、それらが空疎な思弁に過ぎないのかどうか精査・考究してみよう。


Q:ガブリエルの狙いは「対象が存在するならば、それが【何らかの】意味の場に現象していることは必然的である」と「対象が存在するならば、それが【どの】意味の場に現象しているかは偶然的である」の両立を証示することによって、一つの形而上学的テーゼ「現実性とは必然性と偶然性の統一である」を確立することにあるようだ。ヘーゲルキルケゴール止揚する試み、と言えば解ってもらえるだろうか。
とはいえ、その拠って立つ確証なき設定乃至前提を全て承認するのでもなければ、彼の形而上学的主張が受容されることはあるまい。だが、それは果たして可能だろうか?


Q:神と永遠真理―それは幾何学や数学或は論理学の内に見出される、とされる―の類比が真正なものであるかどうか吟味・考究してみよう。
cf.「我々は〈数学的対象〉が存在することを主張も否定もしていない。それは〈無〉を巡って闘うことに他ならないからだ」―リヒネロヴィッツ
「もし数学者Aがプラトン的な意味で〈数学的対象〉が存在すると信じていたとしても、彼の外に現れる振舞は、それらが虚構的な存在だと信じている同僚Bの振舞と何ら違わないだろう。そして、そのBの振舞は、それらが存在するかという問いそのものが無意味だと信じているCの振舞と全く同じであろう」―ティモシー・ガワーズ
「このプロセスの終結において我々が知っていることは、その定理が〈真〉であるとか、実際に存在する幾つかの〈数学的対象〉が我々の気付いていなかった或る性質を持つとかいうようなことではなく、一定の言明が一定の操作のプロセスを介して他の一定の言明から得られるということに過ぎないのである」―ティモシー・ガワーズ


Q:存在論的証明の内実は胡乱な諸前提に基づく概念構成―「一定の言明が一定の操作のプロセスを介して他の一定の言明から得られる」ことの似非哲学的な類比物―に過ぎず、永遠真理(と見做されている事柄)との類比は的外れではないか?例えば、デカルトの証明「現存在が神の本質から分離されえないのは〔三角形の内角和が二直角になること〕が三角形の本質から分離されえないのと同様である」だが、ここで「そもそも三角形が存在しないこともありえたのと同様、あなたの言う神も存在しないことがありえたのではないか」と切り返す人もいるだろう。
我々は事物的必然性と不可能性(ex.水がH2Oであることは必然的、水が鉄になることは不可能)並びに幾何学的必然性と不可能性(ex.三角形の内角和は二直角である他ないこと、三角形の内角和が123°であることは不可能というよりナンセンスかつ単なる誤謬)を存在の偶然性(ex.汎ゆるものが存在しないこともありえた)から区別しているし、そもそも事物や図形とその在り方の関係を存在/本質の形而上学に準拠させねばならぬ謂れは全く無い。幾何学を例に取れば、幾何学において事実乃至真理と我々が成す証明はイコールであるのみならず、斯様な事実=証明が触知出来て「見渡せる」時空的対象であることはそれが有するとされる無時間性と両立する―宇宙史の或る時空点で創めて永遠が生成する―ように思われるのである。
また、アンセルムスの証明「神は最も完全な存在者であり、完全性は存在を含むが故に神は存在する」については、「富士山頂で自爆する女は自爆するが故に存在する」なる文の分析的必然性から斯様な女の現存在を導出することは出来ない―分析哲学風にアップデートするなら「de reからde dictoは導出可能だが、逆は不可能である」といったところか―とでも言っておけばよかろう。
何れにせよ、もはや存在神学には「事物が存在するのとは異なる仕方で存在する、我々の思惟とは独立・無関係に自存する可能的本質の領域こそが〈神〉なのだ!」といった強弁sloganしか残されていないように見える。
然れども、「ありうる」は「ある」に非ず、況や現実をや。