入不二基義『事実性と様相の潰れと賭け』のダメット解釈を解消する(2018/9/19のツイートまとめ)

「何れにせよ、入不二氏の形而上学的或は否定神学的思弁の展開については、私の旧稿で先見され且つ解消済だと私は考えている」
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カント以後の存在神学と思弁的実在論(2018/9/19東京神学研究会発表分)

O.序に
私の見るところ、哲学的困惑の多くは、共約不可能とされる領域を設定乃至前提した上でそれらを結び付けようとする倒錯した知的努力―これは媒介の問題と呼ばれています―に類するもののようです。共約不可能―耳慣れない言葉かもしれませんが、取り敢えずは「関係項が共通要素を持たないこと」「関係項を包摂する地平が存在しないこと」と理解してください。例として、無/有、神/被造物、永遠/歴史、本質(イデア、純粋形相)/存在、精神/身体(デカルト)、概念/存在(カント)、自/他(レヴィナス)、言語/世界(前期ウィトゲンシュタイン)を挙げておきましょうか。
さて、「如何にして無から有が生じうるのか?」「人は如何にして神と出会うのか?」「精神と身体の因果関係は如何にして成立するのか?」「如何にしてインクのしみや空気の振動が世界について語るのか?」アポリアに対する応接―何を媒介項とするか―は様々です。概念を主観/存在を客観に割り当てて峻別しつつ直観で繋ぐカント、自同性の必然性に基づく概念と存在の統一を弁ずるヘーゲル、理知の放下と信仰の飛躍を説くキルケゴール、言語と世界は論理形式を共有していなければならないと断じる前期ウィトゲンシュタイン…しかし彼等の努力にもかかわらず、事態が改善したようには見えません。
ここで「そもそも当初の設定乃至前提は哲学的偏見の産物に過ぎないのであって、それらを吟味〜刷新すればアポリアは自ずと解消されるのではないか?」と問うことは理に適っているし、結論から言えば唯一の解決法ではあるのですが、彼等にこの問いを敢行することは【出来ない】のです。理由は単純で、斯様な設定乃至前提に依拠せずして彼等の言いたいこと―創造と分有、魂の不滅、輪廻転生、個体化、瞬間の到来etc―は【言えない】からです。神の存在論的証明も又然り。そして、本質(イデア、純粋形相)/存在の形而上学と様相を巡る幾つかの臆見「可能ならば存在する」「自らに拠って在る必然的現実存在」こそ存在神学を駆動する両輪なのですが、節を改めてその出処と概要を瞥見したいと思います。



1.存在論的証明の基底〜存在神学を駆動する設定乃至前提
古代ギリシャから現代に至る本質(イデア、純粋形相)/存在の形而上学及び神における本質と存在の必然的統一
「存在しない個物や様態の観念は、個物あるいは様態の形相的本質が神の属性に含まれているのと同じように、神の無限の観念の中に含まれていなければならない」―スピノザ『エチカ』第二部定理8
「現実に存在するあらゆる物体あるいは個物についての観念は、神の永遠・無限の本質を必然的に含んでいる」―スピノザ『エチカ』第二部定理45
「ここで私は、存在を、持続つまり抽象的に考えられる限りの存在、いわば一種の量として考えられる限りの存在とは考えない。何故なら私は、存在の本性、言いかえるならば、神の永遠の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じてくるということから〔第一部定理16を見られたい〕、個物に帰せられる存在の本性について語っているからである。つまり私は、神の中にある限りの個物の存在そのものについて語っているのである。何故ならあらゆる個物は、他の個物によって一定の仕方で存在するように決定されているとはいえ、その各々が存在に固執する力は、神の本性の永遠なる必然性から生じてくるからである」―スピノザ『エチカ』第二部定理45注解
「神の中には、存在の起源だけでなく、実在的である限りの本質あるいは可能性における実在的なものの起源があることもまた真である。それはつまり、神の悟性は永遠真理あるいは永遠真理が依拠する観念の領域であり、神なくしては可能的なものから実在性が失われ、存在するものだけでなく可能的なものも無くなってしまうからである」―ライプニッツモナドジー』43
「信じる者は絶望に対する永遠に確かな解毒剤―可能性を所有している。何故なら、あらゆる瞬間に一切が可能である、ということが神だからである。これが信仰の健康であり、この健康が諸々の矛盾を解くのである」―キルケゴール死に至る病
「出来事の紛らわしさとは、それが生起してきたこと、つまりそこに、無からの、〈非存在〉からの、また存在の仕方の多様な可能性からの移行が行われているという点に存する」―キルケゴール『哲学的断片』
「存在神学は、現存在との当にその差異が問われている本質が絶対的に規定されたものと考えられている場合にしか、展開されることは出来ない。従って、存在神学は純粋形相という概念を前提する。―略―あらゆる存在神学にとっても、純粋思想の内容は〔これらの思想が思惟されているということ〕に依存しないのだということが自明でなければならない。全ての存在神学はこの意味ではプラトニズムである」―ヘンリッヒ『神の存在論的証明』
「思想を把握するという行為には特殊な知的能力や思考力が対応するに違いない」―フレーゲ『思想』
「思想は必ずしも非現実的なのではないが、その現実性は物のそれとは全く異質なものである。―略―思想をあるがままに受け取らなければならない。思想は、思考する者によって把握されることなしに、真でありうる」―フレーゲ『思想』
「我々は物を見、表象をもち、思想を把握し或は考える。我々が思想を把握するとき、或は思想を考えるとき、我々は思想を創り出すのではなく、予め存在していた思想に対して或る種の関係に入るに過ぎない。そしてこの関係は、物を見る関係や表象をもつ関係とは異なるのである」―フレーゲ『思想』
「意味の場とは、何らかのもの、つまり諸々の特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域です。意味の場の外部には、対象も事実も存在しません。―略―『存在する』とは、何らかの意味の場に現象することに他なりません。存在論的な観点からすれば、それを人間が経験するかどうかには、副次的な役割しかありません。殆どのものは、単に我々には気づかれずに現象します。―略―私が主張しているのは、存在とは、世界や意味の場の中にある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質に他ならないということ、つまり、その意味の場に何かが現象していることに他ならないということなのです」―マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』
「ここで我々は対象関与的な de re 最初の解釈を提出せざるをえない。私の提案は『神』という言葉で論理空間を理解するというものである。それは思想について思考する者としての我々が、先行的で安定した論理空間に頼らざるをえないのだということを意識する限りでそう言ってもいいだろう。『神』とはこの意味で、自己意識的な論理空間であり、これは論理空間についての我々の意識において分節化される。論理学が『自然と有限な精神の創造以前における、その永遠の本質に内在する神の叙述』であるというヘーゲルを額面通り受け取る為に、私は先行性について取り上げよう」―マルクス・ガブリエル『ヘーゲルのカテゴリーとはそもそも何であるのか?』
ヘーゲルは論理空間の自己把握の為の構造を要求しているのであり、この構造を『神』という古典的語彙が表現していると考えられるのである。そして斯様な『神』の用法は、プラトンアリストテレス、新プラトン主義者においても見出されるのであり、彼等がここでのヘーゲルの言語使用に影響しているのである」―マルクス・ガブリエル『ヘーゲルのカテゴリーとはそもそも何であるのか?』
「論理空間が何らかの仕方で―精神の形式においてであれ、或はチャーマーズネーゲルの思弁物理学の如き、宇宙マイクロ波背景放射における原現象的また原志向的な痕跡という形式においてであれ―自然の中に嵌め込まれるなどということは決してないのであって、逆に自然も精神も論理空間において自身の場所を見出すのである」―マルクス・ガブリエル『ヘーゲルのカテゴリーとはそもそも何であるのか?』
「全ての数学者がそれを認識しているわけではありませんが、〈昔からの archaic 数学的実在〉が存在します。外的世界と同様に、これはアプリオリに組織化されてはいませんが、我々の探索に抵抗し、斉合性を顕にします。非物質的なのは、それが時空の外に位置するからです」―アラン・コンヌ
「私は、研究の対象、例えば素数列と、それを理解する為に人間精神が精巧に仕上げる概念との間に本質的な区別を設けています。〈昔からの数学的実在〉は研究の対象です」 ―アラン・コンヌ


Q:神の内に在る個体の本質或は可能性の永遠性と必然性、我々の思惟とは独立・無関係に自存する純粋思想、汎ゆるものは概念を扱う生物とは独立・無関係に何らかの意味の場において現象しているetc―暫し立ち止まって、それらが空疎な思弁に過ぎないのかどうか精査・考究してみよう。


Q:ガブリエルの狙いは「対象が存在するならば、それが【何らかの】意味の場に現象していることは必然的である」と「対象が存在するならば、それが【どの】意味の場に現象しているかは偶然的である」の両立を証示することによって、一つの形而上学的テーゼ「現実性とは必然性と偶然性の統一である」を確立することにあるようだ。ヘーゲルキルケゴール止揚する試み、と言えば解ってもらえるだろうか。
とはいえ、その拠って立つ確証なき設定乃至前提を全て承認するのでもなければ、彼の形而上学的主張が受容されることはあるまい。だが、それは果たして可能だろうか?


Q:神と永遠真理―それは幾何学や数学或は論理学の内に見出される、とされる―の類比が真正なものであるかどうか吟味・考究してみよう。
cf.「我々は〈数学的対象〉が存在することを主張も否定もしていない。それは〈無〉を巡って闘うことに他ならないからだ」―リヒネロヴィッツ
「もし数学者Aがプラトン的な意味で〈数学的対象〉が存在すると信じていたとしても、彼の外に現れる振舞は、それらが虚構的な存在だと信じている同僚Bの振舞と何ら違わないだろう。そして、そのBの振舞は、それらが存在するかという問いそのものが無意味だと信じているCの振舞と全く同じであろう」―ティモシー・ガワーズ
「このプロセスの終結において我々が知っていることは、その定理が〈真〉であるとか、実際に存在する幾つかの〈数学的対象〉が我々の気付いていなかった或る性質を持つとかいうようなことではなく、一定の言明が一定の操作のプロセスを介して他の一定の言明から得られるということに過ぎないのである」―ティモシー・ガワーズ


Q:存在論的証明の内実は胡乱な諸前提に基づく概念構成―「一定の言明が一定の操作のプロセスを介して他の一定の言明から得られる」ことの似非哲学的な類比物―に過ぎず、永遠真理(と見做されている事柄)との類比は的外れではないか?例えば、デカルトの証明「現存在が神の本質から分離されえないのは〔三角形の内角和が二直角になること〕が三角形の本質から分離されえないのと同様である」だが、ここで「そもそも三角形が存在しないこともありえたのと同様、あなたの言う神も存在しないことがありえたのではないか」と切り返す人もいるだろう。
我々は事物的必然性と不可能性(ex.水がH2Oであることは必然的、水が鉄になることは不可能)並びに幾何学的必然性と不可能性(ex.三角形の内角和は二直角である他ないこと、三角形の内角和が123°であることは不可能というよりナンセンスかつ単なる誤謬)を存在の偶然性(ex.汎ゆるものが存在しないこともありえた)から区別しているし、そもそも事物や図形とその在り方の関係を存在/本質の形而上学に準拠させねばならぬ謂れは全く無い。幾何学を例に取れば、幾何学において事実乃至真理と我々が成す証明はイコールであるのみならず、斯様な事実=証明が触知出来て「見渡せる」時空的対象であることはそれが有するとされる無時間性と両立する―宇宙史の或る時空点で創めて永遠が生成する―ように思われるのである。
また、アンセルムスの証明「神は最も完全な存在者であり、完全性は存在を含むが故に神は存在する」については、「富士山頂で自爆する女は自爆するが故に存在する」なる文の分析的必然性から斯様な女の現存在を導出することは出来ない―分析哲学風にアップデートするなら「de reからde dictoは導出可能だが、逆は不可能である」といったところか―とでも言っておけばよかろう。
何れにせよ、もはや存在神学には「事物が存在するのとは異なる仕方で存在する、我々の思惟とは独立・無関係に自存する可能的本質の領域こそが〈神〉なのだ!」といった強弁sloganしか残されていないように見える。
然れども、「ありうる」は「ある」に非ず、況や現実をや。

ル=グウィンから村上春樹へ(2018/8/5のツイートまとめ)

ル=グウィン「真の神秘は理性に破壊される事がありません。<偽物>は違います。じっと見据えればこうしたものは消えてしまいます。本当によく見れば途端にその姿は一匹の<荒地鼠>に変わってしまうのです」
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村上春樹『騎士団長殺し』解読(2017/4/20にkimukuma氏へ送ったメモのまとめと追記)

Q:イデアとは何か?
A:前回の記事 http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20170411/1491927985 から大体のところは掴めるんじゃないかね。付け加えるなら、他者の認識を糧として存在し(cf.第2部119頁)、個体性を持つ(cf.第2部487頁「あたしはもうここに来ることがかなわないかもしれない」云々)ような何か。
思い出してほしいんだが、いつか騎士団長はわたしの問いかけ(cf.第1部364頁「あなたはもともとは即身仏ではなかったのですか?」)に対して「ある時点であたしは純粋なイデアとなった」と答えていた。ここでイデアのルーツ(の一つ)がウインストン・ナイルス・ラムファードであろう事も勘案するなら、イデアとは人間が或る特殊なプロセスを経てそうなったものであり、先述した個体性もその前史に由来する事になる。そうそう、騎士団長は『買い手責任』とも言ってたな。そういうところで、石室に閉じ込められていたイデアは『風の歌を聴け』の風や『羊をめぐる冒険』の洞窟の中に居た星羊に繋がってるわけだ。



Q:イデアは何故「諸君」と言うのか?
A:『ソクラテスの弁明』の「アテナイ人諸君」をもじったのだろう。取り敢えず、その根拠として、①『弁明』の冒頭「諸君には【私の言葉遣いではなく】そこで言われている内容が【真実】であるかどうかにのみ注意を払ってほしい」云々と騎士団長の奇妙なしゃべり方(cf.第1部349頁その他)及び騎士団長は真実しか語らない事との対比 ②イデアはそれを認識しうる者たち各々に対して顕れる(cf.第1部352頁) ③国法を語り自ら毒杯を仰ぐソクラテスと再生のための死(cf.第2部322頁)を望む騎士団長の対比 ④想起説をもじったかような騎士団長の発言「ほんとうのところ諸君はそれを既に知っている」(cf.第1部361頁)「諸君は知っておるのだよ。ただ自分がそれを知っておることをしらないだけだ」(cf.第2部306頁)、を挙げておく。



Q:騎士団長の言う<公的言語>と<私的言語>ってどういう事?
A:あの発言から哲学談義を捻り出そうとしても無駄だと思うな。作者には悪いが、元々そういう方面というか哲学する事には合わない方だし、抑もそういう意図もないんじゃないかと。「これがあたしが諸君に与えられる唯一のヒントだ。言うなれば<公的言語>と<私的言語>を区切るぎりぎりの一線だ」これは単に<諸君に話せる事>と<諸君に話せない事>の区切りがヒント―つまり答えを与えずに手がかりだけ与える事―だと言ってるだけでは。



Q:免色渉とは何か?
A:生命のしるしひとつ見えない不毛の土地に流れる一筋の川、その川に佇み独り黙考するシキ(色・死期)を免れた渡し守は「永遠というのはとても長い時間だ」とわたしに語る。底無しの空無を生きつつ、可能性という名の幻夢に縛られて動けない孤絶の男は「永遠にここで生きていなくてはならないのではないか」とわたしに語る。『風の歌を聴け』の風、或は『羊をめぐる冒険』の黒服男を思い出さないか? 気付いているとは思うが、第2部53〜54章は免色渉という存在の意識の諸層を形象化したものといえる。ヒントは其処此処に散りばめられているが、ここで注目すべきはわたしと秋川まりえ双方の体験に通底する諸々の表象だろう。例えば、第2部364〜365頁「彼らは私がここで何をしようとしているかを見届けているのだ。ここは彼らの領土であり、私は孤独な侵入者なのだ」と第2部486頁「ここはそんじょそこらの場所ではあらないのだから。やっかいなものが徘徊しているのだがら」及び第2部491頁「ここは警戒の厳しい場所なのだ。いろいろな意味合いで、しっかり見張られている」云々を対比しつつ考えてみてくれ。
ところで、免色がイデアを認識出来ない〜騎士団長に選ばれなかったのは何故だと思う?
ヒントはさっきの引用の中にある。『ベルセルク』でパック(妖精の一種だ)も言ってたろ、「堅い世界を持つ者は僕らを見つける事が出来ない」とか何とか。そういえば、秋川まりえも「もしよくできた人造人間でないとしたらー略ー免色さんという人には、間違いなく何かしらおかしなところがある」と言っていたな。そして、『羊をめぐる冒険』で黒服男が星羊を奪取しようとするならば、星羊の宿主たる鼠とコネクトし得る唯一の人物―鼠の親友である僕―を媒介者に仕立てる他なかったように、免色渉が自然な形で秋川まりえと接点を持つ為には、彼女の絵の先生であるわたしを介するしかなかった。逆から言えば、免色が<顔のない男>と和解―それは或る種の自己超克という形を取らざるを得ないわけだが(cf.第1部405頁)―しない限り、彼とまりえが真に出会う事はないだろう。
ところで、自分が望むものは何でも自分のものにしてきた免色渉の手をすり抜けていったのが秋川まりえの母親だった。彼女の内心はどうであれ、彼女は他人の妻となり、今や永遠に失われてしまったのだから。「覇王の生」を弛まず歩んできた彼の躓き、後に残されたのは自分の血を継いでいる【かもしれない】一人の少女だった。ここで彼が<不可能な事>を強奪しようと望むなら、免色渉はカリギュラ(cf.カミュカリギュラ』)になってしまうかもしれない。「彼の心の中にはとくべつなスペースのようなものがあって、それが結果的に、普通でないもの、危険なものを呼び込む可能性を持っている」(cf.第2部485頁)と騎士団長も言っていただろう?



Q:秋川まりえとはどんな存在か?
A:先日のコメントで示唆しておいた通り、先ず名前に秘められたメタファーを読み解く必要があるね。まりえは真理絵、物語の随所で示されているように彼女は絵が探り捉えた真実を見て取る能力に長けている。例えば、『白いスバル・フォレスターの男』に免色渉の存在のコアともいえる<顔のない男>の影を見る場面(cf.第2部445頁。わたし曰く「君にはたぶん、まだ見る必要のないものだ〜」云々)等。
ところで、(説明の必要もないと思うが)わたしは『白いスバル・フォレスターの男』に自己の内奥に潜む純粋な暴力性―わたしは不実の妻に対する憤怒と殺意を知らず抑圧していた(cf.第1部503頁)―の影を見たわけだが、それを見る各人に応じて様々に立ち顕れる絵画作品も或る意味で遷移するメタファー(cf.第2部350頁「事象と表現の関連性」)であろう。そして、極く希に絵自体が非現実と現実の通路となる場合もあるわけだ。
付言すると、雨田具彦は『騎士団長殺し』に込められた真実を救い出す事(そのバトンを引き継ぐのはわたしだ)で結果的に秋川まりえを救う道筋をつける(そのバトンを引き継ぐのはわたしだ)事になったといえる。



Q:わたしが『秋川まりえの肖像』を免色に渡したくなかったのは何故か?
A:死んだ者ならともかく、人生の途上にある(未完成の)うら若い少女の肖像を失われしものの神殿に祀らせてはならない―という事じゃないかな。まりえが完成品を目にすれば、彼女〜真理絵の事だ、免色と自分の繋がりを見通してしまうだろう―という懸念もある。まりえが恐れているのは免色渉の存在の中心に空いた穴―底無しの空無、存在の無根拠性と呼んでもいい―であり、そこから浸み出してくる暴力性なのだ。件の暴力性については『野球場』の青年の談話(cf.『回転木馬のデッド・ヒート』156〜157頁。青年の望遠鏡覗きと免色の双眼鏡覗き、「あなたのやっていることはぜんぶわかっているわよ」と「おまえがどこで何をしていたかおれにはちゃんとわかっているぞ」の対比も忘れるな)も参考になるだろう。先述したように、『白いスバル・フォレスターの男』はまりえに対して(おそらく)彼女の父親である男のSoulFactを伝えているのだ。免色とまりえ、其々の抱えた問題が或る程度鎮静化しない限り、彼らが真に出会う事はあるまい。



Q:底無しの空無、存在の無根拠性とは何か?
A:僕の言葉で言えば、「人間的事象の全ては、人間的事象に支えられる必要が全くない[現実=諸事物のネットワーク]から生成しているのであって、人間的事象が人間的事象それ自体を支える事は出来ない。それは恰も沼に落ちた人が自分の髪の毛を掴んで沼から身体を引き上げようとするようなものだ。つまり人間的事象には底が無い」となる。村上春樹氏個人の考えがどうであるかはともかく、このような世界観―僕個人は現実の在り方に即したものだと考えている―とハルキ・ワールドが相容れない事は今更言うまでもないだろうが。まあ、この辺の問題については次回の記事で詳論するつもりだよ。



Q:君の言う人間的事象とは何か?
A:『騎士団長殺し』という作品に特徴的な事として様相及び当為表現の頻出が挙げられると思う。これは明らかに作者の意図の範疇だろう。「かもしれない」「ありうる」「すべき」「ならねばならない」etc とりわけ「かもしれない」は、物語の進展において、免色→まりえ/わたし→室という相異なる二種の因果連関―道元『大修行』『深信因果』との関係については以前コメントしておいた―に対して相異なる仕方で適用される重要なタームであり、それ故か使用回数も群を抜いて多い。
ところで、「かもしれない」「ありうる」「すべき」「ならねばならない」etcは全て人間的事象の範疇だ。意味でも価値でも妄想でも何でもいいが、言語ゲームの世界に在るもの全ては人間的事象であるともいえる。



Q:わたしとユズが別れる事になったのは何故か?
A:どこから手をつけたらいいのかね・・・勿論ここには複雑に絡み合った様々なファクターが存在している(ex.第1部430頁「私と妻のあいだの問題は、私が死んだ妹の代役を無意識のうちにユズに求めたことにあったのかもしれない」云々)わけだけど、結局、最大の要因は↓この事件なんじゃないかな。

私はユズと結婚したいと思っていて(そしてもちろんユズも私と結婚したいと思っていて)、その意思を彼女の両親に伝えに行ったわけだが、父親との半時間あまりの会見は、どのような見地から見ても友好的とは言い難いものだった。私は売れない画家であり、アルバイトに肖像画を描いているだけで、定収入と呼べるものもなかった。将来性と呼べそうなものもほとんど見当たらない。ー略ー「結婚するのは本人の勝手だが、そんなもの長くはもたないぞ。まあせいぜい四、五年というところだろう」というのがその日、別れ際に父親が私に向かって口にした最後の言葉だった(私はそれに対して何も言い返さなかった)。父親のその言葉は不快な響きと共に私の耳に残り、ある種の呪いとしてあとあとまで機能することになった。(第1部431〜432頁)

或はここでわたしが何か言い返していれば、二人の未来は全く違ったものになっていたかもしれない。わたしはあのときユズの父親と闘うべきだった(そしてユズもまた父親と闘ってわたしと結ばれるべきだった)、闘ってユズを奪い取るべきだった。そう、あの『ドン・ジョヴァンニ』のように。とはいえ、実際には黙りこくっていたわけで、闘いは未然に回避され、かくして二人は"檻の中の鳥"(cf.『騎士団長殺し』に関する秋川まりえのコメント「まるで鳥が狭い檻から外の世界に出たがっているみたい」に注目。件の発言は雨田具彦〜わたし〜まりえ本人の生に向けられつつ、それらの結ぼれを示す)に留まる事となった。もう気付いてるかもしれないが、『パン屋再襲撃』のモチーフの引き継ぎ、キイワードは「呪い」だ。『パン屋〜』において、呪いは語り手の私が嘗て友人と決行しようとして果たせなかった(そして結果的に彼らは呪われたわけだ)或る行為が、新妻との関係において【象徴的に再演される】事(cf.パン屋襲撃未遂→マクドナルド襲撃完遂)で鎮められた。『騎士団長〜』では、ユズの父親や邪悪なる父(cf.第2部323頁「私をこれ以上絵にするんじゃないとその男は言った」)との闘いを回避してきた→騎士団長を雨田政彦の包丁で刺殺する、がこれに当る。騎士団長殺し、それは遷移するメタファー―雨田具彦本人が自ら果たすべきだったと心に封印した行為〜政彦による父殺し〜わたしの自己超克の試み(わたしが免色渉から学んだ事の一つでもあろう)etc人々の間を遷移する象徴的再現―に他ならない。
序に言えば、『パン屋再襲撃』でパン屋の【代わりに】深夜営業のマクドナルドを襲撃した際に新妻が「妥協も或る場合には必要なのよ」と言ったのは、これが【象徴的再演による鎮め】だからだろう。『騎士団長〜』で剣の代わりに包丁を使ったのも同じ理屈だ。とはいえ、強奪と暗殺を等し並に扱う事は出来ない(cf.第2部324頁「しかし私が殺しているのは紛れもないひとつ生身の肉体なのだ」云々)わけだが。



Q:免色渉がわたしに「あなたがうらやましい」と言ったのは何故か?
A:秋川まりえ曰く「あの人は何かを信じたがっているのだ」(cf.第2部455頁)そして「私には信じる力が【具】わっている」(cf.第2部540頁。それは雨田【具】彦〜イデア〜メタファーからわたしに引き【継】がれたものだ)というわたしの言葉から―免色渉の立ち位置を三角測量してくれ。 



Q:結局、雨田具彦にとって『騎士団長殺し』とは何であったのか?
A:彼は、失われしものたちへ、そうでありえたかもしれない彼らの肖像を手向けたのだ。その真情は尊重されるべきだが、言語の見せる夢に誑かされてはならない―と僕は思う。騎士団長の言葉をもじって言えば、「知識も事実も妄想も[現実=諸事物のネットワーク]において生成する人間的事象の範疇に過ぎない」という事だ。この点についても次回の記事で詳論するつもりだよ。



Q:「真実とは表象のことであり、表象とはすなわち真実のことだ。そこにある表象をそのままぐいと呑み込んでしまうのがいちばんなのだ。ー略ー人がそれ以外の方法を用いて理解の道を辿ろうとするのは、あたかも水にザルを浮べんとするようなものだ」という騎士団長の発言の真意とは?
A:限定されない意味での享受論にもなっているよね。SoulFactとしての表象〜表象としてのSoulFact、「としての」は余計なんだが。そうそう、カフカがどこかでこんな事を言っていた、「不滅なのは書物であって解釈などというのは絶望の表現に過ぎないのだ」と。
何れにせよ、書物〜物語〜表象〜真実をそのまま呑み込む事のみが理解に至る道というのは(少なくとも誤謬ではないが)事柄の半面しか捉えていないと僕は思う。



Q:物語のラスト、「彼らのことを思うとき、私は貯水池の広い水面に振りしきる雨を眺めているときのような、どこまでもひっそりとした気持ちになることができる」(cf.第2部520頁)について一言。
A:雨の降りしきる貯水池というシチュエーションは『1973年のピンボール』にもあったんじゃないかね。いま手元にないので確証は出来ないが。確か僕が双子の女の子を連れて旧式の電話用配電盤の葬式をしに行く話だったと思う。葬式といっても雨の降りしきる貯水池に配電盤―それは記憶の底に滑り落ちた貧乏な叔母さんのようだ―を投げ込むだけだ。僕は決別の辞としてカント『純粋理性批判』の有名な一節を引用する。「哲学の義務とは、誤解によって生じた幻想を除去する事にある。配電盤よ、安らかに眠れ(だったと思う)」
「私は東北の町から町へ一人で移動しているあいだに、夢をつたって、眠っているユズと交わったのだ。ー略ーそう考えることを好んだ。ー略ー私はもうひとつ別の世界でユズを受胎させたのだ」(cf.第2部540頁)
当然ながら、これはフィクションであって現実にこんな事は起こりようもない。我々は[現実=諸事物のネットワーク]の一齣である他ないのだから。処女懐胎、復活、神の国、加持祈祷、輪廻転生、死後の裁きetc「哲学の義務とは、誤解によって生じた幻想を除去する事にある」
騎士団長曰く「歴史の中には、そのまま暗闇の中に置いておった方がよろしいこともうんとある。正しい知識が人を豊かにするとは限らんぜ。ー略ー事実が妄想を吹き消すとは限らんぜ」(cf.第1部449頁)これは「私には【信じる力】が具わっている」(cf.第2部540頁)と語るわたしに対するキルケゴール的イロニーなのだろうか。僕には、わたしでも免色でも騎士団長でも市井の人々的でもない[生]が確かに在る、と思われるのだけれども。ところで、君はどうなんだ?

騎士団長と貧乏な叔母さんと村上春樹(2017/2/25にkimukuma氏へ送ったメモのまとめと追記)

「あなたを殺したとして、それはぼくにとってのあなたが死ぬということなのですか? あなたはぼくの前から永久に消滅してしまうということなのですか?」
「そのとおり。諸君にとってのあたしというイデアはそこで息を引き取る。それはイデアにとっては無数分の一の死だ。とはいえ、それがひとつの独立した死であることに違いはない」


「私は要するにイデアなのだ。場合により、見る人により、あたしの姿は自在に変化する」
「雨田さんの目には、あなたはどのように映っているのですか?」
「それはあたしにもわからん。あたしはいうなれば、人の心を映し出す鏡に過ぎないのだから」


「おまえはいったい何ものなのだ?やはりイデアの一種なのか?」
「いいえ、わたくしどもはイデアなぞではありません。ただのメタファーであります」
「おまえが本物のメタファーなら、縄抜けくらい簡単にできるんじゃないのか。要するに概念とか観念とかそういうものの一種なのだから、空間移動くらいできるだろう」
「いいえ、それは買いかぶりであります。わたくしにはそんな立派な力は具わっておりません。概念とか観念とか呼べるのは、もっと上等なメタファーのことです」

村上春樹騎士団長殺し 第2部』



何人かのそういった印象を綜合してみると(僕自身には彼女の姿を見ることはできなかったから)、僕の背中に貼りついているのはひとつの形に固定された貧乏な叔母さんではなく、見る人のそれぞれの心象に従ってそれぞれに形作られる一種のエーテルの如きものであるらしかった。ー略ー「貧乏な叔母さんは幽霊じゃないんです。どこにもひそんじゃいないし、誰にもとりついたりはしない。それはいわばただのことばなんです」ー略ー「僕の背中に貼りついているのも、結局は貧乏な叔母さんということばなんです。そこには意味もなきゃ形もない。あえて言うなら、それは概念的な記号のようなものです」

村上春樹『貧乏な叔母さんの話』



「手を見てごらん」私は自分の両手を見てみた。しかし、そこにはもう血の跡はなかった。さっき川の水を掬って飲んだときに、洗い流されてしまったのかもしれない。ずいぶんたくさん血がついていたはずなのだが。

村上春樹騎士団長殺し 第2部』



僕はガラス窓に頭をもたせかけたまま目を閉じて、これまでに巡り会ってきた何人かの女友だちの顔を思い浮かべてみた。ー略ー 僕は膝の上で両手を広げ、長いあいだふたつの手のひらを眺める。まるで何人もの血をたっぷり吸い込んだように、僕の手は暗く汚れていた。

村上春樹『貧乏な叔母さんの話』



「正確に申せば、あたしがその姿を選んだというわけでもあらないのだ。そこでは原因と結果とが錯綜している。あたしが騎士団長の姿をとったことによって、一連のものごとは動きを開始したわけだが、同時にまたあたしが騎士団長の姿をとったことは、一連のものごとの必然の帰結でもある。諸君の住んでおる世界の時間性に沿って話をするとなかなかにむずかしいことになるが、ひとことで言ってしまうなら、それはあらかじめ決定されていたことなのだ」ー略ー すべてがどこかで結びついている。

村上春樹騎士団長殺し 第2部』

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我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。

村上春樹回転木馬のデッド・ヒート



「いいかね、単時点的な人間にとって、人生はローラー・コースターのようなものだ」ー略ー「ありとあらゆる種類のことが、これからきみの身にふりかかってくる。もちろん、わたしはきみの乗ったローラー・コースターぜんたいを見晴らせる。そしてもちろん―あらゆる急降下やカーブのことを書いたメモを、きみに渡すこともできる。どのトンネルの中でどんなお化けがきみの前にとび出してくるかも警告できる。だが、そんなことをしてもきみの役には立たない」ー略ー「なぜなら、それでもきみはやはりローラー・コースターに乗りつづけねばならないからだ。わたしはそのローラー・コースターの設計者でもないし、持ちぬしでもない。だれがそれに乗っているとも、だれが乗っていないとも言わない。ただ、そのローラー・コースターがどんな形をしているかを知っているだけだ」

カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女



伝説の不吉なカーブも通り過ぎたし、照明の暗いじめじめしたトンネルもくぐり抜けた。あとはまっすぐな六車線道路を(さして気は進まぬにしても)目的地に向けてひた走ればいいわけだ。

村上春樹『ニューヨーク炭鉱の悲劇』



もちろん時は全ての人々を平等にうちのめしていくのだろう。まるで路上で死ぬまで老馬をうちすえるあの御者のように。しかしそれはおそろしく静かな打擲であるから、自らが打たれていることに気づくものは少ない。ー略ー 狭苦しいガラス・ケースの中で、時はオレンジみたいに叔母さんをしぼりあげていた。汁なんてもう一滴も出やしない。

村上春樹『貧乏な叔母さんの話』



「疲れるもんだよ、太陽系の単調な時計仕掛の中につかまっているのは」ー略ー「どのみち、これはわたしが死にかけているとか、そんなことじゃない。過去に存在したあらゆるものは、これからもつねに存在しつづけるだろうし、未来に存在するだろうあらゆるものはこれまでもつねに存在したんだ」ー略ー「この犬とわたしが、気ちがいの持った馭者鞭のようにパチンと音を立てて宇宙空間へふっとぶまえに」とラムファードはつづけた。

カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女



「たとえばあたしは一日のうちで限られた時間しか形体化することができない。ー略ー それから、あたしは招かれないところには行けない体質になっている。しかるに諸君が穴を開き、この鈴を持ち運んできてくれたおかげで、あたしはこの家に入ることができた」

村上春樹騎士団長殺し 第1部』



そこには、ラムファード夫人の夫とその愛犬のカサックが実体化した正確な時刻と、非実体化した正確な時刻とが記されている。ー略ー 報告書によると、ラムファード夫人の夫は過去も未来もはっきり見通すことができるらしいのだが、そのどちらの方向に見える光景も、実例をあげられてはいない。

カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女



(貧乏な叔母さん〜騎士団長のルーツとしてのウインストン・ナイルス・ラムファード、そしてヴォネガットに想を得たと思しき四次元&永久主義的な世界観が見て取れる。とはいえ、村上氏は[現実=諸事物のネットワーク]とそこにおいて生成する言語ゲームの世界―その連関の実相を捉え損なっているように思われる)

横山信幸氏のブログ『独今論者のカップ麺』における事実誤認と虚偽

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-0eeb.html?cid=139196310#comment-139196310
お久し振りです、工藤です。いま甲府東横インのノートパソコンから投稿しております。


>うたがっているのは、タカマハラナヤサ、竹村加菜、睫摘、理、工藤庄平の5つの名前です。おかしいと思ってコメントを調べてみたら、どれも同じIPアドレスから送られてきていました。おかしいです。工藤さん、去年入室をお断りしたさいの件と今回の件について、何の説明もないまま勝手に入室されませんようよろしくお願いいたします。もし説明されようとお考えでしたらメールのほうでお願いします。


久しぶりにブログを覗いてみたら、事実無根のホラ話ですか。証拠があるならちゃんと出してくださいね。


>ここ最近書き込んでいるのは工藤さん、Jさん、理さん、(がみ)僕の四人ですかね?
僕はそれぞれ文脈的に別人物だと感じますけども。


わかっている人はちゃんとわかっていらっしゃる。議論でやり込められたからといって、ホラ話を垂れ流すのは頂けないですね。

投稿: 工藤庄平 | 2016年12月 1日 (木) 21時05分



https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B7%A5%E8%97%A4%E5%BA%84%E5%B9%B3
ともあれ、このような濡れ衣というかでっち上げは捨て置けないので、近日中に僕のブログで取り上げさせて頂きます。悪しからず。

投稿: 工藤庄平 | 2016年12月 1日 (木) 21時16分



工藤さん、
一昨年入室をお断りしたさいの件と上記の件について、何の説明もないまま勝手に入室されませんようよろしくお願いいたします。もし説明されようとお考えでしたらメールのほうでお願いします。snb25229@nifty.com

投稿: 横山信幸 | 2016年12月 2日 (金) 13時05分



複数の名を騙ってコメントしたことを認めて謝罪されるのなら、当該のページは削っても構わないと考えていたのですが、それは不要なようですね。
事実無根のホラ話とおっしゃるなら、このブログの管理プロバイダであるニフティに申し立てされれば良いです。僕が言っているように、同一のIPアドレスから複数の名でのコメントがされていたことを確認してもらえると思います。
また、工藤さんご自身のブログ記事にこの事を挙げられるということですが、もし、僕の中傷記事が載るようなら僕の方からそちらのプロバイダへIPアドレスなどの確認や記事削除の請求をさせてもらうつもりです。そういうことになっても、僕が証拠に基づいてものを言っていることを確認してもらえると思います。
投稿: 横山信幸 | 2016年12月 2日 (金) 13時07分



おはようございます、工藤です。いま自宅のPCから投稿しております。


>うたがっているのは、タカマハラナヤサ、竹村加菜、睫摘、理、工藤庄平の5つの名前です。おかしいと思ってコメントを調べてみたら、どれも同じIPアドレスから送られてきていました。おかしいです。
>事実無根のホラ話とおっしゃるなら、このブログの管理プロバイダであるニフティに申し立てされれば良いです。僕が言っているように、同一のIPアドレスから複数の名でのコメントがされていたことを確認してもらえると思います。


オカシイですね。仮にこれが事実であるなら、僕の名を騙りつつ複アカで投稿していた人物がいたという事になります。

投稿: 工藤庄平 | 2016年12月 3日 (土) 06時26分



取り敢えず、第三者にも納得し得るような形で証拠を出してもらわない事にはどうにもなりませんね。


>一昨年入室をお断りしたさいの件と上記の件について、何の説明もないまま勝手に入室されませんようよろしくお願いいたします。もし説明されようとお考えでしたらメールのほうでお願いします。snb25229@nifty.com


発言の機会を奪っておきながら、事実無根のでっちあげは悪質すぎますよ。

投稿: 工藤庄平 | 2016年12月 3日 (土) 06時32分



泥棒は嘘吐きのはじまり
https://twitter.com/kagekineko/status/247123796648144896


>ここ最近書き込んでいるのは工藤さん、Jさん、理さん、(がみ)僕の四人ですかね?
僕はそれぞれ文脈的に別人物だと感じますけども。


わかっている人はちゃんとわかっていらっしゃる。議論でやり込められたからといって、ホラ話を垂れ流すのは頂けないですね。真実を捻じ曲げる事は出来ないのですから。

投稿: 工藤庄平 | 2016年12月 3日 (土) 06時37分


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-0eeb.html?cid=139196310#comment-139196310 もうブログ管理者に消去されたかもしれませんが、「横山さんの決めつけでは・・・」とコメントしておられた方も。客観的に見て、横山氏が「当該の時期に工藤庄平を騙りつつ複数のhandleで投稿していた人物が存在した可能性」を全く考慮せず、しかも直接僕に事実確認する事なしに(横山氏は過去に僕が自分のブログやtwitterのURLを添付したコメントを複数回していた事を了知しています)あのような虚偽を垂れ流した上で謂れ無き謝罪まで要求するというのは・・・不可解を通り越して拭い去り難い不信感が募ります ]

青山拓央『分岐する時間―自由意志の哲学』への質問及び補足

①先ず、自由意志論者の言う<起点性>について質問したいと思います。
今更言うまでもありませんが、抑も我々思考し行為する存在者は[諸事物のネットワーク=世界]の一部であり、それ故に我々の意志決定は我々に自覚されない様々な要因が絡み合う中で生起しているのではないでしょうか。この事は青山さんの言う「諸可能性から選択して現実化する(行為の<起点>としての)主体」なる考えの胡乱さを示しているように思われますが、この点どのようにお考えでしょうか。


②次に「分岐問題」について質問したいと思います。
青山さんも認めておられる通り、我々の決断や行為は時空間(世界)において生起する出来事だと見倣す事が出来ますね。これに対して、様相はどうでしょうか。抑も様相は時空間(世界)において生起する出来事なのでしょうか。
一例を挙げれば、過去様相「ヒトラーは独裁者ではなく著名な画家として生涯を終える事もあり得た」を世界の事象系列―別言すれば、過去の事実・世界の歴史―に組み込む事は出来ませんよね。
・・・もうお解り?かもしれませんが、畢竟「分岐問題」とは、諸可能性を我々の決断や行為と同じく時空間(世界)に内属しているかのように考えた―その事は件の問題設定「(主体や偶然による)諸可能性からの選択」を見れば一目瞭然でしょう―挙句生じた擬似問題に過ぎないのではないでしょうか。


蛇足ながら最後に一言。
先程問題になっていた「時間の動性」ですが、青山さんの言う<時制的変化>でも斎藤先生の仰る<瞬間的現在の生成>でもなく、[諸事物のネットワーク=世界]の在り方に他ならないと僕は考えております。この点につきましては、残念ながら時間の関係上、詳説は出来ませんが。