村上春樹『騎士団長殺し』解読(2017/4/20にkimukuma氏へ送ったメモのまとめと追記)

Q:イデアとは何か?
A:前回の記事 http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20170411/1491927985 から大体のところは掴めるんじゃないかね。付け加えるなら、他者の認識を糧として存在し(cf.第2部119頁)、個体性を持つ(cf.第2部487頁「あたしはもうここに来ることがかなわないかもしれない」云々)ような何か。
思い出してほしいんだが、いつか騎士団長はわたしの問いかけ(cf.第1部364頁「あなたはもともとは即身仏ではなかったのですか?」)に対して「ある時点であたしは純粋なイデアとなった」と答えていた。ここでイデアのルーツ(の一つ)がウインストン・ナイルス・ラムファードであろう事も勘案するなら、イデアとは人間が或る特殊なプロセスを経てそうなったものであり、先述した個体性もその前史に由来する事になる。そうそう、騎士団長は『買い手責任』とも言ってたな。そういうところで、石室に閉じ込められていたイデアは『風の歌を聴け』の風や『羊をめぐる冒険』の洞窟の中に居た星羊に繋がってるわけだ。



Q:イデアは何故「諸君」と言うのか?
A:『ソクラテスの弁明』の「アテナイ人諸君」をもじったのだろう。取り敢えず、その根拠として、①『弁明』の冒頭「諸君には【私の言葉遣いではなく】そこで言われている内容が【真実】であるかどうかにのみ注意を払ってほしい」云々と騎士団長の奇妙なしゃべり方(cf.第1部349頁その他)及び騎士団長は真実しか語らない事との対比 ②イデアはそれを認識しうる者たち各々に対して顕れる(cf.第1部352頁) ③国法を語り自ら毒杯を仰ぐソクラテスと再生のための死(cf.第2部322頁)を望む騎士団長の対比 ④想起説をもじったかような騎士団長の発言「ほんとうのところ諸君はそれを既に知っている」(cf.第1部361頁)「諸君は知っておるのだよ。ただ自分がそれを知っておることをしらないだけだ」(cf.第2部306頁)、を挙げておく。



Q:騎士団長の言う<公的言語>と<私的言語>ってどういう事?
A:あの発言から哲学談義を捻り出そうとしても無駄だと思うな。作者には悪いが、元々そういう方面というか哲学する事には合わない方だし、抑もそういう意図もないんじゃないかと。「これがあたしが諸君に与えられる唯一のヒントだ。言うなれば<公的言語>と<私的言語>を区切るぎりぎりの一線だ」これは単に<諸君に話せる事>と<諸君に話せない事>の区切りがヒント―つまり答えを与えずに手がかりだけ与える事―だと言ってるだけでは。



Q:免色渉とは何か?
A:生命のしるしひとつ見えない不毛の土地に流れる一筋の川、その川に佇み独り黙考するシキ(色・死期)を免れた渡し守は「永遠というのはとても長い時間だ」とわたしに語る。底無しの空無を生きつつ、可能性という名の幻夢に縛られて動けない孤絶の男は「永遠にここで生きていなくてはならないのではないか」とわたしに語る。『風の歌を聴け』の風、或は『羊をめぐる冒険』の黒服男を思い出さないか? 気付いているとは思うが、第2部53〜54章は免色渉という存在の意識の諸層を形象化したものといえる。ヒントは其処此処に散りばめられているが、ここで注目すべきはわたしと秋川まりえ双方の体験に通底する諸々の表象だろう。例えば、第2部364〜365頁「彼らは私がここで何をしようとしているかを見届けているのだ。ここは彼らの領土であり、私は孤独な侵入者なのだ」と第2部486頁「ここはそんじょそこらの場所ではあらないのだから。やっかいなものが徘徊しているのだがら」及び第2部491頁「ここは警戒の厳しい場所なのだ。いろいろな意味合いで、しっかり見張られている」云々を対比しつつ考えてみてくれ。
ところで、免色がイデアを認識出来ない〜騎士団長に選ばれなかったのは何故だと思う?
ヒントはさっきの引用の中にある。『ベルセルク』でパック(妖精の一種だ)も言ってたろ、「堅い世界を持つ者は僕らを見つける事が出来ない」とか何とか。そういえば、秋川まりえも「もしよくできた人造人間でないとしたらー略ー免色さんという人には、間違いなく何かしらおかしなところがある」と言っていたな。そして、『羊をめぐる冒険』で黒服男が星羊を奪取しようとするならば、星羊の宿主たる鼠とコネクトし得る唯一の人物―鼠の親友である僕―を媒介者に仕立てる他なかったように、免色渉が自然な形で秋川まりえと接点を持つ為には、彼女の絵の先生であるわたしを介するしかなかった。逆から言えば、免色が<顔のない男>と和解―それは或る種の自己超克という形を取らざるを得ないわけだが(cf.第1部405頁)―しない限り、彼とまりえが真に出会う事はないだろう。
ところで、自分が望むものは何でも自分のものにしてきた免色渉の手をすり抜けていったのが秋川まりえの母親だった。彼女の内心はどうであれ、彼女は他人の妻となり、今や永遠に失われてしまったのだから。「覇王の生」を弛まず歩んできた彼の躓き、後に残されたのは自分の血を継いでいる【かもしれない】一人の少女だった。ここで彼が<不可能な事>を強奪しようと望むなら、免色渉はカリギュラ(cf.カミュカリギュラ』)になってしまうかもしれない。「彼の心の中にはとくべつなスペースのようなものがあって、それが結果的に、普通でないもの、危険なものを呼び込む可能性を持っている」(cf.第2部485頁)と騎士団長も言っていただろう?



Q:秋川まりえとはどんな存在か?
A:先日のコメントで示唆しておいた通り、先ず名前に秘められたメタファーを読み解く必要があるね。まりえは真理絵、物語の随所で示されているように彼女は絵が探り捉えた真実を見て取る能力に長けている。例えば、『白いスバル・フォレスターの男』に免色渉の存在のコアともいえる<顔のない男>の影を見る場面(cf.第2部445頁。わたし曰く「君にはたぶん、まだ見る必要のないものだ〜」云々)等。
ところで、(説明の必要もないと思うが)わたしは『白いスバル・フォレスターの男』に自己の内奥に潜む純粋な暴力性―わたしは不実の妻に対する憤怒と殺意を知らず抑圧していた(cf.第1部503頁)―の影を見たわけだが、それを見る各人に応じて様々に立ち顕れる絵画作品も或る意味で遷移するメタファー(cf.第2部350頁「事象と表現の関連性」)であろう。そして、極く希に絵自体が非現実と現実の通路となる場合もあるわけだ。
付言すると、雨田具彦は『騎士団長殺し』に込められた真実を救い出す事(そのバトンを引き継ぐのはわたしだ)で結果的に秋川まりえを救う道筋をつける(そのバトンを引き継ぐのはわたしだ)事になったといえる。



Q:わたしが『秋川まりえの肖像』を免色に渡したくなかったのは何故か?
A:死んだ者ならともかく、人生の途上にある(未完成の)うら若い少女の肖像を失われしものの神殿に祀らせてはならない―という事じゃないかな。まりえが完成品を目にすれば、彼女〜真理絵の事だ、免色と自分の繋がりを見通してしまうだろう―という懸念もある。まりえが恐れているのは免色渉の存在の中心に空いた穴―底無しの空無、存在の無根拠性と呼んでもいい―であり、そこから浸み出してくる暴力性なのだ。件の暴力性については『野球場』の青年の談話(cf.『回転木馬のデッド・ヒート』156〜157頁。青年の望遠鏡覗きと免色の双眼鏡覗き、「あなたのやっていることはぜんぶわかっているわよ」と「おまえがどこで何をしていたかおれにはちゃんとわかっているぞ」の対比も忘れるな)も参考になるだろう。先述したように、『白いスバル・フォレスターの男』はまりえに対して(おそらく)彼女の父親である男のSoulFactを伝えているのだ。免色とまりえ、其々の抱えた問題が或る程度鎮静化しない限り、彼らが真に出会う事はあるまい。



Q:底無しの空無、存在の無根拠性とは何か?
A:僕の言葉で言えば、「人間的事象の全ては、人間的事象に支えられる必要が全くない[現実=諸事物のネットワーク]から生成しているのであって、人間的事象が人間的事象それ自体を支える事は出来ない。それは恰も沼に落ちた人が自分の髪の毛を掴んで沼から身体を引き上げようとするようなものだ。つまり人間的事象には底が無い」となる。村上春樹氏個人の考えがどうであるかはともかく、このような世界観―僕個人は現実の在り方に即したものだと考えている―とハルキ・ワールドが相容れない事は今更言うまでもないだろうが。まあ、この辺の問題については次回の記事で詳論するつもりだよ。



Q:君の言う人間的事象とは何か?
A:『騎士団長殺し』という作品に特徴的な事として様相及び当為表現の頻出が挙げられると思う。これは明らかに作者の意図の範疇だろう。「かもしれない」「ありうる」「すべき」「ならねばならない」etc とりわけ「かもしれない」は、物語の進展において、免色→まりえ/わたし→室という相異なる二種の因果連関―道元『大修行』『深信因果』との関係については以前コメントしておいた―に対して相異なる仕方で適用される重要なタームであり、それ故か使用回数も群を抜いて多い。
ところで、「かもしれない」「ありうる」「すべき」「ならねばならない」etcは全て人間的事象の範疇だ。意味でも価値でも妄想でも何でもいいが、言語ゲームの世界に在るもの全ては人間的事象であるともいえる。



Q:わたしとユズが別れる事になったのは何故か?
A:どこから手をつけたらいいのかね・・・勿論ここには複雑に絡み合った様々なファクターが存在している(ex.第1部430頁「私と妻のあいだの問題は、私が死んだ妹の代役を無意識のうちにユズに求めたことにあったのかもしれない」云々)わけだけど、結局、最大の要因は↓この事件なんじゃないかな。

私はユズと結婚したいと思っていて(そしてもちろんユズも私と結婚したいと思っていて)、その意思を彼女の両親に伝えに行ったわけだが、父親との半時間あまりの会見は、どのような見地から見ても友好的とは言い難いものだった。私は売れない画家であり、アルバイトに肖像画を描いているだけで、定収入と呼べるものもなかった。将来性と呼べそうなものもほとんど見当たらない。ー略ー「結婚するのは本人の勝手だが、そんなもの長くはもたないぞ。まあせいぜい四、五年というところだろう」というのがその日、別れ際に父親が私に向かって口にした最後の言葉だった(私はそれに対して何も言い返さなかった)。父親のその言葉は不快な響きと共に私の耳に残り、ある種の呪いとしてあとあとまで機能することになった。(第1部431〜432頁)

或はここでわたしが何か言い返していれば、二人の未来は全く違ったものになっていたかもしれない。わたしはあのときユズの父親と闘うべきだった(そしてユズもまた父親と闘ってわたしと結ばれるべきだった)、闘ってユズを奪い取るべきだった。そう、あの『ドン・ジョヴァンニ』のように。とはいえ、実際には黙りこくっていたわけで、闘いは未然に回避され、かくして二人は"檻の中の鳥"(cf.『騎士団長殺し』に関する秋川まりえのコメント「まるで鳥が狭い檻から外の世界に出たがっているみたい」に注目。件の発言は雨田具彦〜わたし〜まりえ本人の生に向けられつつ、それらの結ぼれを示す)に留まる事となった。もう気付いてるかもしれないが、『パン屋再襲撃』のモチーフの引き継ぎ、キイワードは「呪い」だ。『パン屋〜』において、呪いは語り手の私が嘗て友人と決行しようとして果たせなかった(そして結果的に彼らは呪われたわけだ)或る行為が、新妻との関係において【象徴的に再演される】事(cf.パン屋襲撃未遂→マクドナルド襲撃完遂)で鎮められた。『騎士団長〜』では、ユズの父親や邪悪なる父(cf.第2部323頁「私をこれ以上絵にするんじゃないとその男は言った」)との闘いを回避してきた→騎士団長を雨田政彦の包丁で刺殺する、がこれに当る。騎士団長殺し、それは遷移するメタファー―雨田具彦本人が自ら果たすべきだったと心に封印した行為〜政彦による父殺し〜わたしの自己超克の試み(わたしが免色渉から学んだ事の一つでもあろう)etc人々の間を遷移する象徴的再現―に他ならない。
序に言えば、『パン屋再襲撃』でパン屋の【代わりに】深夜営業のマクドナルドを襲撃した際に新妻が「妥協も或る場合には必要なのよ」と言ったのは、これが【象徴的再演による鎮め】だからだろう。『騎士団長〜』で剣の代わりに包丁を使ったのも同じ理屈だ。とはいえ、強奪と暗殺を等し並に扱う事は出来ない(cf.第2部324頁「しかし私が殺しているのは紛れもないひとつ生身の肉体なのだ」云々)わけだが。



Q:免色渉がわたしに「あなたがうらやましい」と言ったのは何故か?
A:秋川まりえ曰く「あの人は何かを信じたがっているのだ」(cf.第2部455頁)そして「私には信じる力が【具】わっている」(cf.第2部540頁。それは雨田【具】彦〜イデア〜メタファーからわたしに引き【継】がれたものだ)というわたしの言葉から―免色渉の立ち位置を三角測量してくれ。 



Q:結局、雨田具彦にとって『騎士団長殺し』とは何であったのか?
A:彼は、失われしものたちへ、そうでありえたかもしれない彼らの肖像を手向けたのだ。その真情は尊重されるべきだが、言語の見せる夢に誑かされてはならない―と僕は思う。騎士団長の言葉をもじって言えば、「知識も事実も妄想も[現実=諸事物のネットワーク]において生成する人間的事象の範疇に過ぎない」という事だ。この点についても次回の記事で詳論するつもりだよ。



Q:「真実とは表象のことであり、表象とはすなわち真実のことだ。そこにある表象をそのままぐいと呑み込んでしまうのがいちばんなのだ。ー略ー人がそれ以外の方法を用いて理解の道を辿ろうとするのは、あたかも水にザルを浮べんとするようなものだ」という騎士団長の発言の真意とは?
A:限定されない意味での享受論にもなっているよね。SoulFactとしての表象〜表象としてのSoulFact、「としての」は余計なんだが。そうそう、カフカがどこかでこんな事を言っていた、「不滅なのは書物であって解釈などというのは絶望の表現に過ぎないのだ」と。
何れにせよ、書物〜物語〜表象〜真実をそのまま呑み込む事のみが理解に至る道というのは(少なくとも誤謬ではないが)事柄の半面しか捉えていないと僕は思う。



Q:物語のラスト、「彼らのことを思うとき、私は貯水池の広い水面に振りしきる雨を眺めているときのような、どこまでもひっそりとした気持ちになることができる」(cf.第2部520頁)について一言。
A:雨の降りしきる貯水池というシチュエーションは『1973年のピンボール』にもあったんじゃないかね。いま手元にないので確証は出来ないが。確か僕が双子の女の子を連れて旧式の電話用配電盤の葬式をしに行く話だったと思う。葬式といっても雨の降りしきる貯水池に配電盤―それは記憶の底に滑り落ちた貧乏な叔母さんのようだ―を投げ込むだけだ。僕は決別の辞としてカント『純粋理性批判』の有名な一節を引用する。「哲学の義務とは、誤解によって生じた幻想を除去する事にある。配電盤よ、安らかに眠れ(だったと思う)」
「私は東北の町から町へ一人で移動しているあいだに、夢をつたって、眠っているユズと交わったのだ。ー略ーそう考えることを好んだ。ー略ー私はもうひとつ別の世界でユズを受胎させたのだ」(cf.第2部540頁)
当然ながら、これはフィクションであって現実にこんな事は起こりようもない。我々は[現実=諸事物のネットワーク]の一齣である他ないのだから。処女懐胎、復活、神の国、加持祈祷、輪廻転生、死後の裁きetc「哲学の義務とは、誤解によって生じた幻想を除去する事にある」
騎士団長曰く「歴史の中には、そのまま暗闇の中に置いておった方がよろしいこともうんとある。正しい知識が人を豊かにするとは限らんぜ。ー略ー事実が妄想を吹き消すとは限らんぜ」(cf.第1部449頁)これは「私には【信じる力】が具わっている」(cf.第2部540頁)と語るわたしに対するキルケゴール的イロニーなのだろうか。僕には、わたしでも免色でも騎士団長でも市井の人々的でもない[生]が確かに在る、と思われるのだけれども。ところで、君はどうなんだ?