マルクス・ガブリエル『神話・狂気・哄笑』への質問

①本書40頁の「絶対的無規定性」―言語或は規定性の生成それ自体の無規定性と言い換えても良いと思いますが―について質問させてください。
私見では、件の無規定性は嘗てソール・クリプキウィトゲンシュタインを論じた著作のメインテーマと重なり合っているように思われます。
ここでクリプキの言う「私がプラスを意味している事とクワスを意味している事を区別するような、私に関する<事実>は存在しない」を貴方の言う「<世界>は存在しない」にパラフレーズしてみるのも一興でしょう。
とはいえ、クリプキにおいては件の無規定性が人間における自然の事実性としての生活形式に根差していると考えられているのに対し、貴方の議論では「思考以前の<存在>」なる代物―超越論的な何か―が持ち出されるわけです。
ここでお尋ねしたいのですが、シェリング〜貴方の言う<存在>が超越論的お伽話【ではない】事を貴方は如何にして「知った」のでしょうか?


②貴方は「反省の有限性」や「認識論的主体の不透明性」を強調なさる一方で、「生とは、自らを対象化するこのプロセスそのものであるという主張さえなされうる(cf.本書144頁)」とも主張しておられますね。しかしながら、これは我々が「我々自身の制作によるものでない限りの世界(cf.本書168頁)」―僕なら[現実=諸事物のネットワーク]と言ってみるところですが―の一部であり・生涯の約三分の一を睡眠に費やす動物であり・日常生活の大半を「高階の反省」無しに営んでいるという事実を等閑視している点で、極めて狭隘な人間観だと言わざるを得ないのではないか。
付言しますと、我々と「(貴方が言うところの)枠組み」を共有しないものたちが貴方の世界像において居場所を持ち得るのかどうか、僕には理解し難いわけです。