「弁当が怒っている」をめぐる応酬 3 について

「弁当が怒っている」をめぐる応酬 3 については、以下のURLを参照してください。
 http://blogs.yahoo.co.jp/from_yaji_to_jijii/62007570.html?type=folderlist
※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。ということなので、僕のブログから返答させて頂きます。


こんばんは、工藤です。今し方読んだばかりで恐縮なのですが、コメントをいくつか。


>「例の思考実験は原初的態度を基盤にしているが、経験的世界(認識論的次元)でない以上、原初的態度が示されても現に働いてもいない」と云われるかもしれませんが、そうだとして、しかし、私には「例の思考は原初的態度が示されても現に働いてもいない」とは云い切れません。というのは、それをした張本人だからです。


僕のコメントをもう一度お読みください。ポイントは「感官との連絡を欠いた(=空虚な)思考」と「原初的態度が開花・醸成する次元」にあります。

・セノオさんの言う「原初的態度の次元」は、あくまで「“もし”云々のことが起こったとすれば、“私”は何を思い考えるだろうか?」つまりセノオさんの感官との連関を欠いたセノオさんの思考可能性の次元です。

件の思考実験にはセノオさんの感官との連関が欠けています。一例として、セノオさんは“実際に”件の経験(弁当箱から怒声が聞こえ米飯が弾ける云々)をしたわけではありません。原初的態度について言えば、我々は自閉的な思考実験においてはじめて他人に感覚や思考を認めるようになるのではありません。それは自らの感官を通して他人や物と関わり合う経験的世界(認識論的次元)において開花し、経験的世界(認識論的次元)における我々の営みに示されているのです。
というわけで、


>工藤さんの指摘された三者は混在しています。(ちなみに、この三者は、永井均氏の提示した「第二次内包」の次元、「第一次内包」(言語習得)の次元、「第〇次内包」の次元にほぼ相当するものと解しています。)というわけで、今のところその差異には鋭敏ではなく、現実、形而上学的次元も認識論的様相も、学的でありまた論的であるので思考する言語に浸透されていざるを得ません。云い換えれば、現実は汎言語的であらざるを得ません。
現実が汎言語的であらざるを得ないことを踏まえると、先の問いは、より正確には「Pはそう“見做され”、かつ、“私”はそう“正当化される”―“のである”―か?」ということになります。


というセノオさんのコメントはポイントレスと言わざるを得ません。


>現実、形而上学的次元も認識論的様相も、学的でありまた論的であるので思考する言語に浸透されていざるを得ません。云い換えれば、現実は汎言語的であらざるを得ません。


問題は、セノオさんが「現実は汎言語的であらざるを得ない」と言うときの[<現実=ココロ−コトバ>]とは“何”か、ということですね。この辺の事情については http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179 をお読みください。

形而上学的“次元”―“様相”ではなく―には[存在]論的断絶という言語によっては架橋し得ない深淵が横たわっています。“僕”なら「伝達不可能な[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ−コトバ>]に浸透し得ない[<他者>]」と“言う”でしょうが。

経験的世界(認識論的“次元”)と思考における認識論的“様相”の差異については、前回コメントしたので割愛させて頂きます。
付言しますと、そもそも件の思考実験では、既に言語を習得した(と見做しうる)人物を想定した上で「“もし”云々のことが起こったとすれば、“私”は何を思い考えるだろうか?」という問いが提出されていますし、そうであればこそ“僕”もこうしてコメントしているわけです。


>ところで、鋭敏であるとは何になのでしょうか。


僕のコメントをもう一度お読みください。

・「Xは主体“である”〜形而上学的次元」、「我々の言語ゲームにおいて、PはXが感覚や合理的思考を備えた主体“である(=形而上学的次元)”ことを正当化しうるか?〜認識論的様相」、そしてセノオさんの問い「PはXが感覚や合理的思考を備えた主体“である”ことを正当化しうる―と“私は見倣す”だろうか?〜セノオさんの思考可能性の次元」の差異に鋭敏であるなら、これらの問いを一つに纏めることの「出来なさ」が御解り頂けると思います。

言うまでもないことですが、「正当化」は誰かの思考可能性の次元(当然ながら、認識論的“様相”も含まれます)やセノオさんの思考可能性の次元ではなく、経験的世界(認識論的“次元”)において為されるものです。僕が「鋭敏であるなら」と書いたのは、頂いたコメントを読んだ印象としてセノオさんが「正当化しうるか?〜認識論的“様相”」と現実の「正当化」その他を混同されていたように見えたからであって、他意はありません。


>私の場合、自分のコメントで「(弁当でなく)」といって示唆されているように、「“私”の感官」とは特定の弁当に“あなた”を直感したあと、人称機能で「“あなた”」を「“私”」に読み替えることによってはじめて構成されるものと想定されています。


はて。以前セノオさんは、
>指摘にある「感覚や合理的思考を備えた主体と“見倣す”か?」という問いは、混在以前にそもそも眼中にない。なぜなら、「怒っている」、本を正せば「感情をあらわにする」ということで、「主体が感情を持っている」ということは端から想定されていないからです。
と仰っていた筈ですが、これは
>(3)「弁当が怒っている」の思考実験には、“あなた”が登場していない。
ということでは? 
お考えが変わったということであれば、僕のコメントも無駄ではなかったわけです。
そして、もう御解りだと思いますが、僕の言う「感官」は経験的世界(認識論的次元)で働くものであり、セノオさんのお話(人称機能云々)とは無関係です(cf. カント)。


>ところで、例の思考実験がかような原初的態度に即す場合、「“主体”を介さずに弁当が怒ることは出来ない」と工藤さんのように云うのではなく、「特定の弁当(物)を介さずに“あなた”が怒ることは出来ない」と云いたい。


僕は「“主体”を介さずに弁当が怒ることは出来ない」と言ったつもりはありません。以下、僕のコメントをもう一度お読みください。

・次に「物的対象及び感覚や思考と関係を持つ主体」という概念について考えてみましょう。上の思考実験において、米飯の一粒一粒が各々異なる主体だと考えることも・米飯全体でひとつの主体であり、卵焼きと焼鮭は各々異なる主体であると・実は弾けない弁当箱が怒声あるいはテレパシーを発しているとetc考える(考えない)ことも出来るように思われます―何れにしても感官との連関を欠いた“空虚な思考”には違いないのですが。
・我々の文法における「感覚・感情及び思考」と「感覚・感情及び思考を持つ主体」の(文法的)区別―前者を欠いた主体、或は主体なき前者という概念の有意味性。それらに関して、我々は“明晰判明な”概念を持っているでしょうか。
・“主体”を介さずに弁当と怒りを結び付けることは出来ません。

僕が一連のコメントで示したかったのは、「そもそも或る物的対象が感情や思考を持つということが有意味であるためには“主体”概念が必要なのですが、“それ”が如何なる領域と境界を持つのかは予め決められているわけではありません。この意味で“主体”とはパースペクティブ性と指標性のみで構成されている概念であり、その曖昧性・不明瞭さに便乗することで様々な思考実験が可能になるのです」ということでした。


>ここで「特定の」というのは、単に数多あり得る弁当(物)のうちの1つということではなく、一方的にであれ、名前で呼ぶようなかけがえのなさで関わり合っていることを含意しています。


ここで言及されている「関わり合い」が専らセノオさんの思考可能性の次元で営まれているのだとしたら、以下のコメントは


>そしてそのように関わり合っていることは直ちに特定の弁当(物)が主体的であることだと、もしくはウィトゲンシュタインの言葉を借りて「魂に対する態度」だと云いたい。


ポイントレスと言わざるを得ません。とりあえず『哲学探究』をもう一度お読みください。


>しかし、私は例の思考実験をしたものの、でもいま現に、最初から書いたり読んだりするかたちでそれをしていません。したがって、「例の思考実験は原初的態度を基盤にしているが、原初的態度が示されても現に働いてもいない」というのは正鵠を得ています。


原初的態度については既に述べたので割愛させて頂きます。


>ところで、「私は…したのですが、でも現に…していません」と云われるところの「私」の用法は、はたして主体・客体用法または「(工藤さんの云う)形而上学的用法」のいずれでしょうか? もしくは、それに汲み尽くされるのでしょうか?


これは僕が提出した問題ではありません。ご自身でお考えください。


>さて。ここまできてようやく、形而上学的次元が浮き彫りになった気がするところです。そしておかげで改めて見えてきたことがあります。それはまず、例の思考実験は原初的態度においてただの物が特定の物になる過程を、云い換えれば「Xは主体である」ようになる過程を反映させようとしていたという、例の思考実験の性格です。次に、“私”ではなく“あなた”が「主体」ないし「魂」の現実的基盤だと直観していることです。思い付きまでに云うと、「主体」概念ないし「魂」概念には“私”に由来する要素と“あなた”に由来する要素が混在しているかもしれないのではないでしょうか。


いずれにしても、セノオさんの言う「形而上学的次元」は、先に僕が問題にした「形而上学的次元」とは無関係でしょうから、コメントのしようもありません。しかし、


>例の思考実験は原初的態度においてただの物が特定の物になる過程を、云い換えれば「Xは主体である」ようになる過程を反映させようとしていた


というのはセノオさんの誤解だと思われます。何故そう言えるのかは、僕のここまでのコメントを読めば御解り頂ける筈です。


>次に、“私”ではなく“あなた”が「主体」ないし「魂」の現実的基盤だと直観していることです。思い付きまでに云うと、「主体」概念ないし「魂」概念には“私”に由来する要素と“あなた”に由来する要素が混在しているかもしれないのではないでしょうか。


この辺の事情については、デイヴィッドソン『主観的、間主観的、客観的』をお読みください。永井均氏には求めるべくもなかった原初的態度・身体性・事物世界に対する目配りが議論に強い説得力を与えていると思います。


>例の思考実験は「私」の文法ではない、「あなた」の文法を明らかにしようとしてきたと云えそうである、と。


これもポイントレスだと思います。以下、前回の日記からの抜粋ですが、ヒュームの無主体論を念頭に置きつつお読みください。

・「主体」概念は経験的世界(認識論的次元)においてのみ生成しうるということが、主体概念に“予め”一般性(他の・我々の)が組み込まれているように見える理由(根拠)なのである、と。 *(他の・各々の)と書くべきでした。このことは主体概念の本質的規定に示されています。


>本記事に対して、工藤さんからコメントを頂きました。
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120807
2012/8/8(水) 午前 6:07


おはようございます、工藤です。せっかくコメントを頂いたのに昨夜まで気付かずにおりました。今し方自分のコメントを読み返し、説明不足と思われるいくつかの箇所について加筆したところです。御参考になれば幸甚です。
2012/88/8(水) 午前 6:52