「弁当が怒っている」の思考実験について

セノオ様

こんばんは、工藤と申します。先程ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/from_yaji_to_jijii/61992561.html#61992561 を読ませて頂きました。
以下、感想とコメントです。

>ただ、実際に、恒常的に特定の(弁当箱に入った)弁当しか「まずい」と言った途端に語気の強い声が聞こえると同時に弾けたことがないとするとどうか、霊のような「物から離れて存在し得る主体」概念はそこでは働かないのではなかろうか。というのは、米飯やらが弾けるときに弁当箱は弾けないと想定されているからである。

先ず、上の思考実験において、仮に怒声の発生源が特定された―それが弁当箱か米飯か卵焼きかミートボールかetcはともかく―としても、そのことは特定の弁当箱とかそれに詰め込まれた弁当に対して感覚や思考あるいは主体を帰属させる“決定的な”理由(根拠)にはなりえないと思われます(理由“のひとつ”にはなりうるかもしれませんが)。

従って、依然として神様か妖精か悪魔か先祖の霊etcが米飯やおかずを弾けさせていると“考える”こと“も”出来ますし、また https://twitter.com/nineteen_jacob/status/218776530137006080 で示唆しておいたように、私の幻聴と考えることも可能でしょう。
次に「物的対象及び感覚や思考と関係を持つ主体」という概念について考えてみましょう。上の思考実験において、米飯の一粒一粒が各々異なる主体だと考えることも・米飯全体でひとつの主体であり、卵焼きと焼鮭は各々異なる主体であると・実は弾けない弁当箱が怒声あるいはテレパシーを発しているとetc考える(考えない)ことも出来るように思われます―何れにしても感官との連関を欠いた“空虚な思考”には違いないのですが。

ここでひとつの問いを提出してみます。昨日怒声を発した「何か」と今日怒声を発した「何か」が同一(の存在者)であると考えるべき理由(根拠)は何でしょうか。たとえば声音の類似性とか「特定の弁当箱」の時空的連続性を持ち出すことで同一性を担保しようとするのは“決定的な”理由(根拠)たりえないという理由で保留されることになります。依然として神様か妖精か悪魔か先祖の霊etcが米飯やおかずを弾けさせていると“考える”こと“も”出来るのですから。

>この現実を自覚したところでは、「私は「怒っている」概念の変貌を生きてしまった」と、または「私は「弁当が怒っている」概念を生きて習得してしまった」と考えられる。もっとも、それは考えることしかできない。――以上も、原初的態度を反映している。

https://twitter.com/nineteen_jacob/status/218199968454938626
「もし云々のことが起こったとすれば、私は何を思い考えるだろうか?」と「云々のことは現実に起こりうるか?」の差異。前者における「もしPが起こったとすれば、“私”はXを感覚や合理的思考を備えた主体と“見倣す”であろうか?」と「もしPが起こったとすれば、PはXが感覚や合理的思考を備えた主体“である”ことを正当化しうるか?」の差異。

原初的態度が“示される”のは、或る特定の思考実験において、ではなく、我々の日常生活―物に関わりつつ他人と応接する経験的世界(認識論的次元)―において、なのです。https://twitter.com/nineteen_jacob/status/218779334817746944 要するに、事実として、殆どの人は、犬猫とか他の人間に「感覚や主体を認め」ますが、石とか電信柱について「感覚や合理的思考を備えている」とは【言わない】わけです。「現に“私”はXを感覚や合理的思考を備えた主体と“見倣している”」

https://twitter.com/nineteen_jacob/status/218764454832246784 主として認識論的次元で働く“飲み込み”は、論理的正当化や永井均氏が言うような想定とは全く異なる起源―アプリオリな能力に基づいている―を持つように思われます。勿論“飲み込み”の仕方には個人差もあるでしょうし、一様に論じることは出来ません。

>かたや「弁当が怒っている」の思考実験は原初的態度としての現実の反映である。かたや「ゾンビ」「ビンゾ」の思考実験は原初的態度を基盤にして存在が成立する、その論理の自覚である、云い換えれば、「ゾンビ」等のような「錯覚」に襲われる論理の自覚である。

繰り返しになりますが、原初的態度が“示される”のは、或る特定の思考実験において、ではなく、我々の日常生活―物に関わりつつ他人と応接する経験的世界(認識論的次元)―において、なのです。そして、上の思考実験においては、異なる二つの問い「“私”はXを感覚や合理的思考を備えた主体と“見倣す”か?」と「PはXが感覚や合理的思考を備えた主体“である”ことを正当化しうるか?」が未整理なまま混在させられているのではないでしょうか。
翻って、ゾンビ・ビンゾの思考実験は「P=思考における認識論的“様相”=知りうる(気付きうる)」を捨象した上で「形而上学存在論)的“様相”=存在(超越)概念=ありうる(起こりうる)」から導出されているように見えます。

>つまるところ、2つの思考実験は、「存在(超越)」概念から導出された錯覚というよりは、むしろ、「存在」という言葉にまつわる原初的態度を反映したと云いたい。繰り返すことになるが、かたや「ゾンビ」「ビンゾ」の思考実験は例の錯覚に襲われる論理の自覚であるが、かたや「弁当が怒っている」の思考実験は例の錯覚とは別の問題である、云い換えれば、例の錯覚の肝に相当する「物から離れて存在し得る主体」概念なんて働いていない(cf. 本稿「「弁当が怒っている」の思考実験に対する批判など」における「まず」以下)。そのことを断ったうえで「ゾンビ」「ビンゾ」の思考実験について云うと、例の「錯覚」に襲われるのもまた原初的態度なのである。

これまで述べてきたことを敷衍すると、①上の思考実験においては「物的対象及び感覚や思考と関係を持つ主体」という概念が働いている ②存在(超越)概念から導出されたゾンビ・ビンゾの想定に襲われるのは(原初的態度ではなく)思考である ということになります。

最後になりましたが・・・ 1.専ら思考―とりわけ哲学的なそれ―において導出される<他者>  2.経験的世界において応接する<[他者]>  3.存在論的に断絶した―“飲み込み”や思考と無関係に自存する超越である―[他者]・・・


御返信ありがとうございます。とりあえず一点だけ補足させて頂きます。

>ここで重要なのは、あくまでも原初的態度と似た事態であること、すなわち、原初的態度を基盤にしている点です。
原初的態度を反映していない思考(実験)は空虚、というよりは、意味不明、理解不可能であるはずです。

そうですね、引用文の前半について異論はありません。当に仰る通りだと思います。
寧ろ問題は、後半のセンテンスにおける“空虚”の内実にあります。https://twitter.com/nineteen_jacob/status/218776530137006080 つまり“空虚な=感官との連関を欠いた”思考であって、“空虚≠原初的態度を反映していない”なのですね。「日常生活においてなされない思考(実験)」というのは、僕にとっても意味不明・理解不能ですが、“空虚な=感官との連関を欠いた思考”はそうではありません(cf. カント、マクダウェル)。

僕が少し舌足らずな物言いをしてしまった為に生じた(と考えられる)誤解について一点だけ補足させて頂きます。

>指摘にある「感覚や合理的思考を備えた主体と“見倣す”か?」という問いは、混在以前にそもそも眼中にない。なぜなら、「怒っている」、本を正せば「感情をあらわにする」ということで、「主体が感情を持っている」ということは端から想定されていないからです。「あらわにならない感情」などというものは端から想定されていないのです。

そもそも「もしPが起こったとすれば、“私”はXを感覚や合理的思考を備えた主体と“見倣す”であろうか?」という問いは、「Xは「あらわにならない感情」を持ちうるか?」を含意してはいません。先のコメントで僕が「P=思考における認識論的様相=知りうる(気付きうる)」と書いた理由もそこにあるのです。

我々の文法における「感覚・感情及び思考」と「感覚・感情及び思考を持つ主体」の(文法的)区別―前者を欠いた主体、或は主体なき前者という概念の有意味性。それらに関して我々は“明晰判明な”概念を持っているでしょうか。


おはようございます。以下のツイートは、先月永井均氏が或る精神分析系の学会で発表した際に配布されたレジュメ―来月発売予定の著作からの抜粋だったようです―に対する批判的検討を含んでいます。御参考になれば幸甚です。
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/216671655546724353
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/216674911547179008
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/216676620424065029
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/216680272412946432
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/216682984663810048
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/216688663705296896
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/216692257582088193

>改めて詰問されると、明晰判明な概念を持っているかはあやしい。
ただ、「感覚・感情及び思考」と「(感覚・感情及び思考を持つ)主体」とが文法的に内的関係にあるように見える

主体・客体用法における「私」は感覚や感情や合理的思考を持つ身体的存在者ですが、形而上学的用法においては「身体及び感覚や思考等を持つ主体」という概念―文法的連関“内的関係にある”という思考―は突飛な思考実験によって破壊されてしまうのですね。

https://twitter.com/nineteen_jacob/status/218199968454938626 思考実験それ自体が新たな概念連関の“発明”―「哲学とは概念の創造である」と言う人(ドゥルーズ)もいますね・・・僕自身はこのような“構築的”哲学観に与する者ではありませんが―であり、この新しい編成における《私》は「身体や自己意識等との関係が偶然的であるような現実性一般」を指すと“言われている”わけです。
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564 要するに永井均氏の思考実験では、“純化(?)された=身体や思考等との文法的連関を破壊された”一人称が、旧い編成においては区別されていた現実性概念と“極めて粗っぽい遣り方で”結び付けられているのです。

たしかに永井均氏は「私」と「現実」の概念的連関を「発明(構成)する」ことで”哲学の延命に貢献した”のかもしれない(「私」と「現実」の文法的差異を消し去ることは出来ないとしても)。とはいえ、[現実性(事物世界)]は「現実」の文法的位置付けと無関係である。@yu1_373 nineteen_jacob 2012/03/18 14:11:05 http://togetter.com/li/275366 http://togetter.com/li/273742
御参考になれば幸甚です。

>(2)“私とは別の”ということの由来は、人と応接する原初的態度にあるほかない。(つまるところ、“私とは別の”というのは、この原初的態度に映る“あなた”に由来する。)
>「感覚・感情及び思考」は「あなたに教えられた」ということに暗に裏打ちされている

そうですね。少しアングルを変えて言えば、「主体」概念は経験的世界(認識論的次元)においてのみ生成しうるということが、主体概念に“予め”一般性(他の・我々の)が組み込まれているように見える理由(根拠)なのである、と。

>(3)「弁当が怒っている」の思考実験には、“あなた”が登場していない。

「偽装」や「表出されない感覚や感情」を巡る言語ゲームの存在が示唆していること。
“主体”を介さずに弁当と怒りを結び付けることは出来ません。「出来なさ」の多義性について。
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/218199968454938626


>今後は本ブログのコメント欄に書き込まず、工藤さんご自身の管理するブログ等の媒体に書き込んでくださいますよう、よろしくお願い致します。

では、以下、感想とコメントです。

>但しです。原初的態度の次元では“私”とPはそれらとして区別されていない、そう想定されています。というか、そういう次元のことを「原初的態度」と私は呼んでいます。したがって、問いは次のようになっていることになります。「PはXが感覚や合理的思考を備えた主体“である”ことを正当化しうる―“と見做される”―か?」

繰り返しますが、原初的態度が“示され”また“現に働いている”のは、思考実験において、ではなく、我々の日常生活―物に関わりつつ他人と応接する経験的世界(認識論的次元)―において、なのです。
セノオさんの言う「原初的態度の次元」は、あくまで「“もし”云々のことが起こったとすれば、“私”は何を思い考えるだろうか?」つまりセノオさんの感官との連関を欠いたセノオさんの思考可能性の次元です。「それ」が僕が言う意味での原初的態度を基盤にしていることは仰る通りだと思いますが、以下のコメント

>さてそこに至る過程では、「感覚や合理的思考を備えた主体」から「感覚」が、というか「感情」が捨象されています。主体はそのような調子で感官との連関を欠く。そしてついには合理的思考も欠き、残るのはいわば存在感だけになりそうです。

には明らかな誤解が見て取れます。僕が問題にしていたのは「(弁当ではなく)或る特定の思考実験において弁当が怒っていると“見倣す”であろう“私”の感官」なのですから。
ここでカントの諌言「内容なき(=感官との連関を欠いた)思考は空虚である」を挙げておきましょう。そして、

>このような問いであるので「PはXが感覚や合理的思考を備えた主体“である”ことを正当化しうるか?」という問いと対比される「“私”はXを感覚や合理的思考を備えた主体と“見倣す”か?」という問いは眼中にないと云った、そういうことになります。

仮に“私は〜と見倣すだろうか?”へ内在化する(内在的解釈を与える)ことによって異なる二つの問いを一つに纏めることが可能なのであれば―話は単純なのでしょうが。
「Xは主体“である”〜形而上学的次元」、「我々の言語ゲームにおいて、PはXが感覚や合理的思考を備えた主体“である(=形而上学的次元)”ことを正当化しうるか?〜認識論的様相」、そしてセノオさんの問い「PはXが感覚や合理的思考を備えた主体“である”ことを正当化しうる―と“私は見倣す”だろうか?〜セノオさんの思考可能性の次元」の差異に鋭敏であるなら、これらの問いを一つに纏めることの「出来なさ」が御解り頂けると思います。


「偽装」や「表出されない感覚や感情」を巡る言語ゲームの存在が示唆していること。
因みに知覚言明を心理的言明へ還元(内在化)することの「出来なさ」については http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323256024