運命論を解消する

本稿の目標は、入不二基義『時間と絶対と相対と』(以下『絶対』と略記)第九章「運命論から何を読み取るべきか」の批判的検討を通して、運命論の論証を明晰化することである。猶、本稿では、テイラー(R.Taylor)による運命論の論証に代えて、入不二が主張する「排中律の二様相」(cf.『絶対』p.226~)を検討するが、最終的に―後者の胡乱さが顕示されることによって―両者は棄却される。
猶、本稿の記号[ ]は、言語に回収不可能な[出来事]或は[現実]を自得して頂く為の符牒として採用されたものである。


【Ⅰ】アリストテレスの運命論批判
入不二によれば、運命論へと導く最も古く有名な議論は、アリストテレスの『命題論』第九章に登場する。それは、「排中律」等の原理に依拠することで、「必然によって一切のものがそうであるのであり、そして偶然によってそうあるのではない」ことを導こうとする議論である。以下、その論証をまとめてみよう。


1.ある個別的な未来言明(ex.P「明日海戦が起こる」)が真であるか、その言明の否定(¬P「明日海戦が起こらない」)が真であるか、そのどちらかである。
2.明日が現在になって海戦が起こるならば、昨日のPという言明は真であったことになる。また、真であると判明すれば、その後も真であることは変わらない。つまり、真であるならば、(時間を越えて)常に真である。
2’.明日が現在になって海戦が起こらなければ、昨日の¬Pという言明は真であったことになる。また、真であると判明すれば、その後も真であることは変わらない。つまり、真であるならば、(時間を越えて)常に真である。
3.(1と2と2’より)Pが常に真であるか、¬Pが常に真であるかのどちらかである。
4.(3より)Pが必然的であるか、¬Pが必然的であるかのどちらかである。
5.(4より)Pであるにしても¬Pであるにしても、どちらにしても必然的である。


この論証は「不合理である」と、アリストテレスは言う。何故なら、これを認めてしまうと、「生じてくるものどものうちには何一つとして偶然によってあるものはなく、むしろすべてのものが存在し、また生成するのは必然によってである」ということになり、選択や熟慮などが意味を持たなくなってしまうからだ、と。そして、入不二によれば、この論証には以下の四つの原理が含まれており、アリストテレスの批判はそのなかの二つの原理に向けられている。


Ⅰ.排中律:或る言明の肯定が真であるか、その言明の否定が真であるかのどちらかである。
Ⅱ.時制移動:現在も過去においては未来だったし、未来も現在になるし、やがて過去になる。
Ⅲ.汎時間化:真であることが判明すると、時間を越えて常に真であることになる。
Ⅳ.必然性導入:或る言明が真であるならば、それが真であることは必然的である。


入不二によれば、アリストテレスはⅠとⅣを批判することで運命論を論駁出来ると考えていた(らしい)。
アリストテレスは、排中律をⅠのように「(Pは真)または(¬Pは真)」ではなく、「(Pまたは¬P)は真」と解釈することによって、運命論を回避出来ると考えている。つまり、「明日海戦が起こる」が必然的なのでも「明日海戦が起こらない」が必然的なのでもなく、「明日海戦が起こるか起こらないかのどちらかである」という全体が論理的に必然的なだけである。故に其々の選言肢は偶然的なことに留まる、と。
Ⅳについて、アリストテレスは「条件付での」必然性導入と「無条件での」必然性導入を区別し、前者は認めるが後者は認めない。この区別は、□(PならばP)と(Pならば□P)の区別に相当する。前者は同一律トートロジーとして認めることであり自明なのに対して、後者は誤りである。「Pであるならば、Pであることは可能である」は論理的に正しくても、「Pであるならば、Pであることは必然的である」とまでは言えないからである。要するに、Ⅳの必然性導入が前者を表すならば、自明ではあるが運命論を導出することは出来ない。他方、後者を表すならば、それは誤った原理になってしまう。いずれにせよ運命論を導くための原理にはなり得ない。
―以上が【入不二によって解釈された】アリストテレスの運命論批判である。


【Ⅱ】入不二による【Ⅰ】批判と更なる運命論批判
以下、入不二の主張を本稿の議論に必要な範囲で要約しておく。

①運命論の論証において重要なのはⅡとⅢであって、それらを容認する限り、ⅠとⅣに対するアリストテレスの批判は失効する。
②ⅡとⅢを容認するならば、未来言明は「前もって真理値を持つ」のではなく「予め真理値を持っていたことに後でなる」ので、未来言明Pに適用された排中律を「(Pは真)または(¬Pは真)」と解釈することは不当ではない。
③ⅡとⅢを容認するならば、Ⅳの必然性導入は、□(PならばP)や(Pならば□P)ではなく、「或る言明が“現に”真である」ならば、そのことによって、その言明が時間を越えて必然的に真であるような「“一つの”閉じた現実世界」が構成されることにおいて理解可能である。
アリストテレスの言うところに反して、其々の選言肢は必然的であるが、(Pまたは¬P)という全体として捉えるとき、その全体には「空白」が生じ偶然性が入り込む。故に、運命論として不十分である。
排中律(P∨¬P)は、Pでも¬Pでもない「空白」とPか¬Pどちらかに決まる「ベタ」という二様相を合わせ持っている。


【Ⅲ】運命論を解消する
では、先ず④と⑤を検討していこう。
アリストテレスは【排中律】を「(Pまたは¬P)は真」と解釈している、と入不二は言うが―本当にそうだろうか? 
そうではない、と思われる。抑も「其々の選言肢は偶然的なこと」だと考えることが出来たのは、単にそれらが【未来言明】だからであって、排中律は無関係である。
例えば、
P「明日海戦が起こる」⇒◇P「明日海戦が起こることもあり得る」
¬P「明日海戦が起こらない」⇒◇¬P「明日海戦が起こらないこともあり得る」 
或は、過去偶然命題「2010年にアメリカ大陸が消滅することもあり得た」
は自然だが、
□P「明日海戦が起こることは必然的である」
□¬P「明日海戦が起こらないことは必然的である」
或は、「2010年にアメリカ大陸が消滅しないこともあり得た」
は如何だろうか? 
これらの文は、我々には如何にも奇異に感じられる。□Pや□¬Pにおける必然性の根拠は全く不明であるし、最後の文についてはナンセンスと言う他ないだろう。

話を戻せば、当人の真意はどうであれ、アリストテレスは未来言明から未来偶然命題を導出し得る―「P⇒◇P」「¬P⇒◇¬P」―という文法的真理(論理的必然性)を確認していたに過ぎないのだから、入不二の批判は的外れである。
また、以前別のところでも書いたが、偶然的事実を構成する為には「対比」が成立するだけでよく、入不二の言う「空白」を持ち出す必要はないと思う。たとえば、「阪神大震災が起こらないこともあり得た/阪神大震災が起こった(対比)」の成立こそが、阪神大震災を偶然的事実として把握(構成)することを可能にしているのであって、ここで排中律が「空白」を用意していると想定すべき理由は見当たらない。


さて、では次に①と②を検討してみよう。
②を読む限り、入不二は、未来言明が真理値を【持ち得る】―それが言及している時点においてその言明の真偽が定まる(真理条件)―ことと、【現実に】未来言明が真(偽)に【なる】―真(偽)[である]―ことを混同しているように見える。付言するならば、未来言明が「前もって真理値を持ち得る」ものであるとしても、それが「予め真理値を持っていたことに後でなる」とは言えないだろう(cf.『絶対』p.214 過去・現在と未来の非対称性が看過されている)。
とはいえ、未来言明が「前もって真理値を持ち得る」ものである限り、未来言明に排中律を適用しようとしても「(Pは真)または(¬Pは真)」と解釈することは出来ないように思われる。以下、本稿の冒頭で紹介した論証を再検討してみよう。


1.P「明日海戦が起こる」が真であるか、その言明の否定¬P「明日海戦が起こらない」が真であるか、そのどちらかである。
→未来言明に排中律が適用されている(実際にはここでの未来言明は【遊び駒】に過ぎないのだが)。

2.明日が現在になって海戦が起こるならば、昨日のPという言明は真であったことになる。また、真であると判明すれば、その後も真であることは変わらない。つまり、真であるならば、(時間を越えて)常に真である。
→この記述は未来言明Pの真理条件に反している。以下、二は、未来言明Pの真理条件である。

二.もしPが言及している時点で海戦が起こるならば、そのことによってはじめて昨日のPという言明は真になる。また、いったん真になれば、それから先は真であり続ける。つまり、Pという言明とPを真にする出来事の関係は不変的である。

2’.明日が現在になって海戦が起こらなければ、昨日の¬Pという言明は真であったことになる。また、真であると判明すれば、その後も真であることは変わらない。つまり、真であるならば、(時間を越えて)常に真である。
→この記述は未来言明¬Pの真理条件に反している。以下、二’は、未来言明¬Pの真理条件である。

二’.もし¬Pが言及している時点で海戦が起こらなければ、そのことによってはじめて昨日の¬Pという言明は真になる。また、いったん真になれば、それから先は真であり続ける。つまり、¬Pという言明と¬Pを真にするような事様の関係は不変的である。

三.(1と二と二’より)Pが真になるか、¬Pが真になるかのどちらかである。

三’.(1と二と二’より)もしPが真になれば、その先Pは真であり続ける。または、もし¬Pが真になれば、その先¬Pは真であり続ける。

四.(三より)Pが偶然的であるか、¬Pが偶然的であるかどちらかである。

四’.(三’より)もしPが真になれば、その先Pが真であり続けることは必然的である。または、もし¬Pが真になれば、その先¬Pが真であり続けることは必然的である。

五.(四より)Pであるにしても¬Pであるにしても、どちらにしても偶然的である。
→これは単に「未来言明から未来偶然命題を導出し得る」という文法的真理を確認しているだけである。

五’.(四’より)Pが真になればその先Pは真であり続けるにしても¬Pが真になればその先¬Pは真であり続けるにしても、どちらにしても必然的である。
→言うまでもないと思うが、これを「(Pは真)または(¬Pは真)」と解釈することは出来ない。これは単に「真になった未来言明がその先真であり続けることは必然的である」という文法的真理を確認しているだけである。


結論から言えば、この論証は【恰も】現実に生起する[出来事]について言及しているかのように【見せかけて】はいるが、実際には五.「未来言明から未来偶然命題を導出し得る」或は五’「真になった未来言明がその先真であり続けることは必然的である」という文法的真理(論理的必然性)を確認しているに過ぎない。そして、「未来言明から未来偶然命題を導出し得る」ことと「真になった未来言明がその先真であり続けることは必然的である」ことは矛盾しない―仮に二つの文法的真理が矛盾するならば、我々はそれらを文法的真理と見倣さないだろう。アリストテレスが「其々の選言肢は偶然的」、他方、我々は「真になった未来言明がその先真であり続けることは必然的である」と考え得た理由もそこにある。


では、最後に③を検討してみよう。
ここでの問題は唯ひとつ―「或る言明が現に真であるならば」というときの“現に”と“ならば”の関係である。論理構造に着目するならば、『絶対』p.215の論述に反して、③の命題「仮にP(¬P)が現に真であるならば、P(¬P)が真であるような世界においてP(¬P)は必然的に真である」は必然命題「もしP(¬P)が現に真であるならば、P(¬P)を真にする出来事(事様)が生起したことは必然的に真である」の言い換えに過ぎず、それ故[出来事]や[現実]に言及するものではあり得ないように思われる。
要するに、命題「仮にP(¬P)が現に真であるならば、P(¬P)が真であるような世界においてP(¬P)は必然的に真である」の必然性は必然命題「もしP(¬P)が現に真であるならば、P(¬P)を真にする出来事(事様)が生起したことは必然的に真である」の分析的な必然性に由来するものであり、それ故[出来事]や[現実]に言及していない―ということである。
また、ここで「もしP(¬P)を真にする出来事(事様)が生起するならば、P(¬P)は必然的に真である」とは言えないだろう。ただし、「もしP(¬P)を真にする出来事(事様)が生起するならば、その先P(¬P)が真であり続けることは必然的である」は文法的真理だと考えられる。


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