森岡正博さんの論文 「生まれてこなければよかった」の意味 についてのメモ

森岡正博さんの論文はコチラ http://www.lifestudies.org/jp/umarete01.htm へ。


森岡さんは「生まれてこなかった場合には【生まれてこなかった状態を把握する私というものが存在しない】のだから、それが【どういう状態であるのかを知り得る】者は誰ひとりいないことになる。従って、生まれてきたことと生まれてこなかったことを比較することは原理的に不可能であるように思われる。そして、もしそれが不可能であるならば、抑も『生まれてこなければよかった』とは言えない筈である」と言うが、これは【認識論的様相】と【存在論的様相】を混同しているように思われる。
森岡さんの見解に反して、『生まれてこなければよかった』が【自らが生まれてこなかった状態を把握・認識し得るか否か】を含意しないことは明らかだろう。
(認識論的様相「自分が生まれてきたことを知り得るか否か」と存在論的様相「私が生まれないこともあり得たか否か」の文法的差異について考えてみよ)
森岡さんの言う「存在と非存在の比較不可能性」は【存在論的】な問題なのである。



森岡さんは「『生まれてこなければよかった』とは、『私が生まれてくるという出来事が過去において起きなかった』という歴史を持つ世界が、私の存在しない今ここでありありと実現することを、私が今ここで心から欲することであり、これが『生まれてこなければよかった』という命題の【正確な】意味である」と言うが、この解釈は牽強付会ではないか。
『生まれてこなければよかった』という様相文から「私が生まれてこなかった可能世界」や「そのような可能世界が私のいない今ここで実現すること」を仮構してしまうのは【哲学者】であって、『生まれてこなければよかった』と考える【市井の人々】ではないだろう。
率直に言って、僕は森岡さんの言う【正確な】意味―【様相論理に従えば】『Pは可能である』は『Pが真である可能世界がある』に還元出来る―が様相に対する根本的な誤解に基づいているという意味で、正確どころか不適切で誤った理解だと考えている。

さて、では、件の牽強付会な様相解釈―様相は可能世界を含意する、換言すれば、様相文は平叙文の量化に還元出来る―が仮構されるプロセスを描出してみよう。


①「バラク・オバマが生まれてこないこともあり得た」という様相文を例にすると、
→②様相論理に従えば「バラク・オバマが生まれてこなかった可能世界がある」という平叙文に変換される。
→③バラク・オバマは既に存在してしまっているので、現実の事象系列に「バラク・オバマが生まれてこなかった」を組み込むことは不可能である。とはいえ、これは「様相論理の公理系S5」に基づく【論理的な不可能性】―或る世界において生起しなかった過去をその世界の事象系列に組み込むことは【出来ない】―に過ぎない。加えて、
→④我々は「世界に帰属していない過去・事象」なる代物について何ら明確な概念を持っていない。従って、
→⑤「バラク・オバマが生まれてこなかった」過去を持つ【別の=可能 世界】が存在することになってしまう―これは我々の合理性を満足させる為に導入(仮構)されたもの、つまり論理的に要請された概念装置と考えられる―わけである。


哲学者の十八番「君たちに『○○』という命題の【本当の】意味『✖✖』を教えてあげよう」論法に反して、僕は様相文を平叙文の量化に還元することは【出来ない】―当に様相文は平叙文【ではない】という理由で―と考えている。
前に別のところ http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120207/1328617871 でも書いたが、ポイントは【論理的無矛盾性と言明可能性条件に基づく様相文】と【真理条件を持つタイプの平叙文】との文法的差異にあると思う。
ともあれ、先のプロセスを見る限り、【可能世界=我々の合理性に基づいて要請された概念的構成物】と考えるのが至当ではないだろうか。

森岡さんの言う「自己充足」と違って、スピノザ的肯定=至福に様相文法は不要であろう。


*「<私>が生まれないこともあり得た」を巡る似非問題が構成されるプロセスについて
①様相的文脈における一人称の使用「私は今現にXだが、Xは存在しても私が存在しないことがあり得た」から、
→②<これ>性〜《タイプ》性https://twitter.com/nineteen_jacob/status/282196018060201984 が働いて、身体や自己意識との関係が偶然的な《私一般》なる概念が仮構されてしまう。
→③<これ>性〜《タイプ》性https://twitter.com/nineteen_jacob/status/282196018060201984 が働いて、身体や自己意識との関係が偶然的な<この私>なる概念が仮構されてしまう。
→④現存在〜指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]と単なる概念〜身体や自己意識との関係が偶然的な<私>を混同してしまう。
→⑤主体概念の内容的規定である《私一般》と<この私>、或は今概念のそれ《今一般》と<この今>は不可分かつ相補的な在り方をしているが、その理由は<これ>性〜《タイプ》性に求められるべきだろう。


中井久夫氏や永井均氏が主張する unique-I-nessとone-of-them-ness の不可分・相補性は「今」や「私」概念のみに認め得るような特異な性質ではない。<これ>性〜《タイプ》性は、我々の認識や思考を成立させている構成的原理であり・かつ前言語的な能力だと考えられる。
ここ https://twitter.com/nineteen_jacob/status/282196018060201984 で重要なのは、
①「僕は今PCの画面を見つめている」という文・言明(の意味)に回収不可能な[出来事]
②<唯一無二のこの出来事(僕は今PCの画面を見つめている)>という概念→<これ>性
③《一般・可能的な事象の一事例(僕は今PCの画面を見つめている)》という概念→《タイプ》性
上記の差異を精確に理解することであろう。


森岡正博さんの発言「命題Xが真となる任意の可能世界は命題Xの他に無数の命題を包摂しており、それらの真偽を語ることは有意味だし、この意味でこの可能世界について語ることは命題Xについて語ることには決して還元できない」を読んで、入不二氏の言う「全体」と可能世界の類似性に気づいた。
試みに、命題と【可能世界】の関係に対する森岡正博さんの見解 https://twitter.com/nineteen_jacob/status/328665880814817280
構成される【全体】や充実態としての【欠如】に関する入不二さんの主張 http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20121031/1351637369 を読み比べて頂きたい。
両者に通底する誤謬とそれらの【概念装置】が仮構されるプロセスが見えてくる筈だ。
そして、「命題Xが真となるある任意の可能世界は命題X以外の無数の命題をも包摂しており、それら無数の命題について【真偽を語ること】は【有意味】である」という主張について言えば、我々は【或る命題の真偽を語ることの有意味性】とその命題が真(偽)【である】ことの差異を理解しているし、抑も様相文『Pは可能である』や平叙文『Pは真である』からPを真にする[出来事]を【導出する】ことは出来ない―或る文・言明を真(偽)にするのは[現実]であって、可能世界やそこで生起する出来事ではない―と答えておこう(ex.「米国大統領のバラク・オバマが北海道で生まれたことは真である」という文からそれを真(偽)にする[出来事]を【導出する】ことが出来るかどうか考えてみよ)。
ポイントは http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323256140 以下の差異
①或る文が無矛盾である(矛盾している)が故に言明可能(不可能)と見倣されること
②或る文・言明が真(偽)であること
③或る文・言明(の意味)に回収不可能で、それらを真(偽)にする[現実]
にある。


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