谷口君の批判に答える

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哲駒02&哲高2-05(2010/10/30&31)報告 2010年11月12日16:28  の名を藉りて、哲高2-05の謎解き、及び土田哲学批判を敢行する。

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 http://www.ilp-project.net/storage/20101112.html

 要するに、まだ肚を立てているのである。

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コメント

ジェイコブ2010年12月09日 20:35
先日は御世話になりました。哲高の方はともかく、パスタ屋での会談は中々に有意義だったと思います。
「哲高の謎解き」読ませて頂きました。足跡をつけて下さったときに目を通すべきだったのでしょうが、語調(敢行する、肚を立てているetc)に不穏な気配―知的探究とは程遠い、情念のようなもの―を感じたので、そのときはスルーさせて頂きました。まあ、ここ最近は転職活動やらプライベートのゴタゴタで忙殺・翻弄されていたこともありまして、マイミクでない方の(しかも長文で・ただならぬオドを纏っている)書いたものを読んで返答する精神的余裕もなかったというのが正直なところです。足跡から察するに、僕からのリアクションを待たれていたようなので、その点はどうか御寛恕願います。
さて、これから御批判・御質問に返答させて頂くわけですが、僕はTANIさんの提出した(と思われる)すべてに返答する義務は持たないので、僕が答弁に値すると判断したものについてだけ返答させて頂くことにします。しかも、出来るだけ簡単に答えたいと思います。
二三度ざっと目を通しただけなので、もう一度最初から読み返しながら書き込んでいきたいと思います。

>さかたさん

コメントを読ませて頂きましたが、僕はさかたさんが独り勝手に捏ね上げた土田哲学(仮にそのようなものがあるとすれば)なる仮想敵と格闘しているような印象を受けました。1と2については部分的とはいえ正しいと思いますが、それ以外は誤読と捏造の産物としか思われません。
とりわけ6が酷い。確かに以前「そもそも哲学の始めから哲学者は似非問題をつくり続けてきたわけですが、当然その中には過失犯と確信犯がいます。現代の哲学において後者の代表はクリプキとそのエピゴーネンであるN先生だが、彼らは似非問題をつくることで結果として哲学の延命に寄与することになったのです」と言ったのは事実ですが。
一言でいえば、答弁に値しません。今迄さかたさんに対しては随分と辛辣な物言いをし続けてきたので、その間溜まりに溜まったものが噴出したのだと解釈していますが、ようやく目覚めかけたというのに―また居心地の良い?<夢>の中に戻ってゆくというのは詰まらないことですね。

ジェイコブ2010年12月09日 22:41
では先ず、「α 土田哲学の世界観の解説」について。
(注.[]は[言葉でないもの]、<>は<言葉でしかないもの>を強調する符牒です。> 以下は「哲高2-05報告」からの引用です)

>「事物」とは、前概念的(前言語的)な世界のありかたを呼んだもので、言葉によって切り取られる以前の世界の姿、概念化される以前の物事のありさまを表現している。これは物理学的な客観世界だけに留まらず、いわゆる主観的なもの(例えばクオリア)も含めてこのように呼んでいる。

僕はそのときの文脈に応じて[出来事]とか[世界]とか[神]などとも表記するのですが、[事物]については最初のセンテンスでTANIさんが要約して下さった通りと言ってよいと思います。ただし、それを「物理学的な客観世界」と言ってよいかどうか。結局「物理的な客観世界」といっても、それが語られ・知解されるものである限り、ただの言葉―<物理学的な内容規定が組み込まれた概念体系>に過ぎません。従って、

>だから、「事物世界」を(カントのように)神秘的な概念として難しく捉える必要は特にないわけで、むしろ以下の形で理解することにすれば、土田氏の哲学はかなり見通しがよくなるだろう。すなわち、「『事物世界』とは、言語という色眼鏡に通される以前の、現にあり、現に見え、現に分かれ、現に関わることができる、この身近な世界のことである」

とは言えないのです。かくして[事物]とは、決して<知> に包摂されない・理念的存在という<概念>を超えた・想定も指示も到達し得ないのだが我々が現にそれに含まれて在るような形而上学的存在であることになります。付け加えて言えば、ここで言う「形而上学的」というのは「感覚を超えた」を含意せず(むしろ概念と区別される[感覚]は[事物]に属しています)、「言語を超えた・言葉でない」ということです。そして、僕の世界観?を理解するには、先ず[言葉でないもの]と<言葉>の区別を理解するところから始めなければなりません。
ジェイコブ2010年12月09日 23:21
(参考までに。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1526480087&owner_id=1433201

たとえば自然科学で武装した素朴実在論(やそれに類した概念体系)においては、このような区別が問題になることはありません。逆に言うと、それを問題として可視化する観点を欠いていればこそ、そのような概念体系が構成され得るわけです。
[事物]と<言語>の断絶、(以下で少し触れることになるでしょうが)[土田なる身体であること]と[さかたなる身体であること]の断絶(その他の断絶については、http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1602869862&owner_id=238332)、ここでは触れませんが[土田なる身体であること]と<ココロ−コトバ>の区別(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1612103193&owner_id=17060948を参照して頂きたい)は、僕の話を理解する上で極めて重要なポイントなのです。
[事物]には[土田なる身体であること](精確とは言えませんが、とりあえずは[土田の現象的意識]と御考え下さい)も含まれます。とはいえ、[事物世界]においては[土田なる身体]と[TANIなる身体]が共在しているのに対し、[土田なる身体であること]と[TANIなる身体であること]は並列不可能です(因みに僕はこれを存在論的断絶と呼んでいます)。ここでは触れませんが、これは極めて重要な前概念的[事実]と言えます。詳しくは、ジェイコブ日記「ジェイコブに訊く Q&A」を御読み下さい。
しかしながら、ここで「何故お前は[TANIなる身体であること]が存在することを知っているのだ?そもそも[それ]が存在するとどうして言えるのか?」と問う人がいるかもしれません。「Q&A」でも書きましたが、これは存在論的断絶と認識論的不可知性を混同した為に生じた似非問題―他我問題やビンゾ−ゾンビ問題がそうです―だと思われます。
ジェイコブ2010年12月10日 00:32
僕(土田)ならこう答えるでしょう、「脳があろうがなかろうが、我々に似た在り方をしているものについて、"僕は"心あるものと"言う"のです。翻って、水道水について"僕は"それを心あるものとか命あるものとは"言わない"。TANIさんについて言えば、彼が脳を持ち・彼が生命活動を失っていなければ、"僕は"[TANIなる身体であること]は存在すると"言う"のです。そもそも[TANIなる身体であること]は―我々はもとよりTANIさん本人にとっても―<概念>ではないでしょう。ただし、[TANIなる身体であること]において生じる[出来事]、たとえば[痛み]を基にして<痛み(概念)>を生み出し得るのは、TANIさん本人だけだと思われます。そういう意味では、科学的検証も心ある振舞も各々そのように把握されるもの=<知>でしかないわけですから、[TANIなる身体であること]に到達することは出来ません。我々に出来ることは、経験的探究を通して[TANIなる身体]について何らかの<概念>を構成することだけなのです」

一つ重要な問題が残されています。「<知>に包摂され得ないものである[TANIなる身体であること]の想定は如何にしてなされたのか?」という問題です。これに関しては、http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1436340563&owner_id=17060948を御読み下さい。
ジェイコブ2010年12月10日 01:33
>土田哲学においては、事物はそれそのものとして個別化(分節化)されている。「痛み」という言葉を使って概念化される以前から、「痛み」(と事後的に呼ばれることになるある感覚)は「擽ったさ」(と事後的に呼ばれることになるある感覚)とは区別されており、自立的存在として識別可能である。むしろ、「痛み」が自立的であることを、言語化可能であることの条件として捉えるわけである。

僕の言い方が拙かったのかもしれませんが、これは誤解、というか「言い過ぎ」です。僕はただ単に「[内的諸感覚]について言えば、[各々の感覚自体に備わった特定の質]によって概念独立的に個別化されている」と言っただけです。仮にここで言語化(概念化ではなく)可能条件を挙げるとすれば、先ず第一には、赤ん坊とそいつに言葉を教える他人(アンドロイドならよいが、話すワラジムシでは駄目でしょうね)がいること、でしょう。

>また、土田哲学においては、事物はそれそのものとして事物的に探究することが可能であり、事物の水準において事物は実験され、事物の水準において事物から法則を取り出して来ることができる。そうして探求され取り出され蓄積された法則を、言語に対して反映したものが科学や物理学だと考えるのである。

部分的には精確に理解して下さっているのですが―適宜修正して言い直しますと「たとえば化学や生物学に関して、事物は[事物]の次元において実験され、<言語>の次元において<法則>が取り出されると言い得る。つまり[事物]を"知る・認識する"とは、経験的探究を通して[事物]について何らかの<言説(概念)>を構成することに他ならない。対して、何かを"思考する"とは、習得した文法(パスタ屋でも言ったと思いますが、文法とは<世界>を構成する形式・メタ的な意味での<捉え方>のことです)に則って概念を構成することである。大まかに言うと、前者は自然科学的な<知>、後者は哲学的な<知>に対応している」ということになります。
ジェイコブ2010年12月10日 02:23
>それどころか、土田氏は事物に様相(可能性)さえも導入する。事物世界の可能性は「形而上学的可能性」と表現され、言語上の可能性とは峻別されている。そして、例えば目の前の種は、芽を出し成長する形而上学的可能性を所有している、と考えるのである。かかる如き可能性を(言語レヴェルではなく)事物レヴェルで承認するというのは、かなりのウルトラCであり、想像を絶する世界観である(褒めている)。ぼくの立場としては、様相は言語が導入するものだ(というか、世界に様相を入れることが言語の役割だ)と考えるから、言語以前の「種そのもの」に「発芽する可能性」など認めることは、もちろんできない。

形而上学的可能性」に関する僕の考えは、おおよそTANIさんに要約して頂いた通りです。付け加えて言えば、僕は「様相は言語が導入するもの」というTANIさんの見解に賛同する者(過去に僕が書いたものを読めば解ると思いますが)でもあります。
要するに、こういうことです。
先ず、1.文法が構成する<世界の見方>としての<様相>と、
2.<知>に包摂不可能な[事物]の在り方である[形而上学的可能性]の区別を理解することが重要だと思われます。
次に言えることは、2.の[存在]を承認した上で―先述したように、我々が為し得るのは、何らかの<言説(概念)>を構成することでしかないのですから―[事物]の在り方に即した<概念>を構成出来るように努める必要があるということでしょう。

>但し、土田哲学では、事物が「どのように」探究されるのか、事物としての種が「どのように」発芽する可能性を秘めるのか、説明できない。

今迄の記述で僕なりの説明は与えたと思います。
ジェイコブ2010年12月10日 02:53
とりあえず総括的に言いますと、「α 土田哲学の世界観の解説」は、一つの思想的立場(ex.素朴実在論)の要約として首肯し得るものではあるけれども、土田哲学(仮にそのようなものがあるとすれば)の解説としてはピントがズレていると言わざるを得ません―さかたさんのような勝手読みをされている方は別としても。

「β 土田氏による永井哲学批判」以下についても追々返答させて頂く予定ですが、僕は今週末に所用で静岡の掛川市に行かなければなりませんので、12日の夜までは書き込むことが出来ません。とりあえず御報せしておきます。
ジェイコブ2010年12月10日 03:29
次に、【第一批判: 私秘性は不可能である】 について。
先ず確認ですが、僕はこの話http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1562056315&owner_id=17060948を「私秘性は不可能である」ことの例として持ち出したのではありません。「似非問題の解消」の一例として取り上げたに過ぎないのです。

>それは想像可能だが想定不可能(=形而上学的に不可能=事物のありかたとして不可能)な事態である。そのようなことがありうると主張するならば、事物の探究(実験)を介してそれがありうることを証明せねばならない。すなわち、「形而上学的可能性」を適用するためには、「可能であることが証明されている」という附帯条件が充たされている必要がある。

これは誤解です、僕はそのようなことは言っていません。たとえば「物がただ突然無くなることがあり得る(あり得ない)」という文について考えてみましょう。こう言う=主張するのは自由でしょうが、真(偽)であるとは言えません。「想像し得る」と「あり得る」の文法的差異―真偽の判定に「証明」が要求される場合があると言ったまでです。
さかた2010年12月10日 22:15
ジェイコブさん、まだ読んでいませんが、面白そうですね。印字してゆっくり読ませていただきます。
ただ、谷老兵さんは現在パソコンが不調なので、しばらくご覧になれないかもしれません。

ジェイコブ2010年12月12日 22:33
>さかたさん

ゆっくりじっくり御読み下さい―御質問等はメールで承ります。


ジェイコブ2010年12月13日 00:05
(前回の続きです)以前http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1452050276&owner_id=17060948でも示唆しておいたのですが―僕は、ここ半世紀における論理学者の妄説に反して、様相を可能世界の量化に還元することは出来ないと考えています。要するに、無様相文と様相文の質的差異(文法的差異)を量でカバーすることは出来ないと思います。
平たく言うと、様相文に含まれている(と見做し得る)無様相文について真偽を問うことは有意義ですが、様相文それ自体は論理的無矛盾性に基づく言明可能性条件に準拠している、ということです。
様相文の意味は論理的無矛盾性に準拠した言明可能性条件に基づいているのですが、それが含んでいる(と見做し得る)無様相文の真理条件も含んでいる、と言ってもよいでしょう。
たとえば(注. 色川武大は故人。死因は心臓破裂)「色川武大は交通事故で死ななかった」という文が真であるのだから「色川武大が交通事故で死ぬことはあり得ない」という文も真であるとは言えるでしょうが、だからといって「色川武大が交通事故で死ぬことはあり得た(あり得なかった)」とは"言えない"などと考える人はいない筈?です。
主語が固有名/一般名のケース・時制(あり得る/あり得たetc)・[出来事]との照合 等の細かい問題については割愛しますが、いわゆる論理的可能性というものが、論理的無矛盾性に基づいた言明可能性条件に準拠していることは御解り頂けたと思います。
ジェイコブ2010年12月13日 01:35
では、【第二批判: 分裂と転移の思考実験批判】について。
ここは完全なる誤読です。答弁に値しないので、先に進ませて頂きます(適用、文法的トリックについては後述します)。

「γ 土田氏に対する反駁 1°」について。
御言葉を返すようですが、ここも上と同様「信じがたい誤読」なので割愛させて頂きます。猶、論理的可能性の本質については、前回のコメントを参照して下さい。

「同 2°」について。
再び御言葉を返すようですが、TANIさんは「痛み」と[痛み]の区別をどのように御読みになったのでしょうか。似非的要素を捨象した上で"僕なら"、『超越的私秘性』とは決して言語ゲームにあらわれることが出来ない[土田なる身体であること]に受肉している<ココロ−コトバ>である、と言うでしょうね。言うまでもなく、このことは「概念VS事物」などという図式とは無関係です。

「同 3°」について。
>また、事物としての「痛み」を考えることにして、土田氏は、通常「痛み」を感じる状況で「擽ったさ」を感じることは形而上学的に不可能だと主張するが、

僕はそのような主張はしていません。もう一度よく御読み下さい。
「極く単純に考えても、或る[感覚]が、通常とは異なる脈絡と表出において生じ得る―擽られると[痛み]を感じる等―か如何かという問題は、決して自明なものではない。要するに、概念分析や思考実験によっては解消出来ない―ただ[事物]の在り方の探究を通してのみ解明されうる問題だということである」―何らかの先入見を投入しない限り、この文章から「形而上学的に不可能だと」いう主張を読み取ることは出来ないように思われます。
勿論TANIさんが言われる通り、[土田なる身体であること]において生じる[痛み]は対比不可能(唯独性)です。とはいえ、[土田なる身体(C繊維の発火)]と[痛み]の関係は、人体構造の同型性と経験的探究から得られた<人体に関して構成された十全な概念>に準拠している(ex.麻酔、薬etc)ことは明白だと思われます。
ジェイコブ2010年12月13日 03:18
「【第二批判駁論】1°」について。
割愛します。論理的可能性については、前々回のコメントを御参照下さい。
「同 2°」について。
これも完全なる誤読です。特に(他人事ながら)僕が危惧したのは、

>土田氏は「文法的事実」を介して「想像可能性」を示すのだが、普通これらの思考実験を考える場合は「想像可能性」を介して「存在論的事実」を示すものである。

この部分です。付言すれば、これは「私に関する存在論的事実」といったものではなく、「私を中心とする言語」に関する文法的注釈なのです。

「同 3°」について。
答弁に値しない、と言いたいところですが、ここは極めて重要なので割愛するわけにはいきません。僕の語り方の拙さもあるでしょうが、誤読がこれほど猖獗を極めたからには、そのメカニズムが解明されなければならないと思うからです。

>「私」という語の文法的地位がそのことの想像を可能にするわけではない。想像は最初から可能であり、「私」に関する文法的事実は、その想像を介して発見された存在論的事実(〈私〉の存在)を、むしろ隠蔽するために働くのである。ご自分で引用されたウィトゲンシュタイン『哲学的考察』の文章を、土田氏がどのように読んだのか、わけが分からない。この文章で、ウィトゲンシュタインはまさにこの「隠蔽」を論じているのだとしか、ぼくには読めない。想像が初めから可能であることと、「適用」が「記述」の上に表れないこととは、いかなる関係もない。

始めに言っておきますと、TANIさんは、僕が引用したウィトゲンシュタインの文言を、半分も理解されていないように見受けられます。
「隠蔽」を論じていることは、N先生の哲学を齧った人なら(でなくとも)誰でも気付いているのではないでしょうか。むしろ真の問題は、「隠蔽」されるものとは実のところ[<何>]であるのか、ということでしょう。
先取り的に言ってしまうと、"僕なら"[土田なる身体であること]に受肉している<ココロ−コトバ>であると"言う"でしょう。そして、思考実験を使ってスコトゥスの個的存在性に文法的粉飾を施したに過ぎない<私>―今現に土田であるがアサファ・パウエルでもあり得た、つまり土田久作との関係が偶然的である<現実性>―などは概念的構成物に過ぎない、と。端的に言えば、似非問題の温床は、受肉している<ココロ−コトバ>と、概念的構成物である<私>を混同してしまうことにあるということです(私見ですが、この問題に関しては、あのウィトゲンシュタインでさえ―的を外しているのだと思います)。

まだ続きます。
ジェイコブ2010年12月13日 23:57
少し話が先走り過ぎてしまったようです。ここは似非問題の「急所」ですから、本当なら外堀から埋めていくように論述しなくてはいけない―始めは無関係と思われた論点が後々効いてくるような語り方―のでしょうが。
唐突ですが、ここで「概念自体がそれの現実存在によってしか理解出来ないもの」について考えてみましょう。すぐに思い浮かぶのは「私を中心とする言語」―その中でも特に「一人称現在の感覚言明」です。
たとえば"僕は"「私は今右足首が痛い」という文の意味(概念)と「私は今右足首が痛い」という文(概念)が適用される[出来事]の区別を理解出来ますし、実際に区別出来ます。つまり、一人称現在の感覚言明においては、概念把握と概念の適用(概念が適用される[出来事])を区別出来るということです。
翻って、「我思う故に我在り」とか「私は今心の中(内語)でアブラカダブラと十回唱える」という文は如何でしょうか。一人称現在の心理的言明の大半について、"僕は"概念把握と概念の適用(概念が適用される<事柄>)を区別出来ません。「後の文」については区別出来そうですが、概念が適用される[出来事]は生じていないと思われます。要するに、ただ概念把握があるだけです。
さて、そうだとすると、ここでこういう問いが出てくるわけです。
「概念把握と概念の適用 の区別は解った。しかし、その区別は"どの"私にも成り立つ文法的事実に過ぎないのであって、真の問題は別のところにある。そのような文法的事実が<私>を隠蔽するメカニズムと・隠蔽される<私>こそが問題にならねばならない」
先ず、これが錯覚であることを示す必要があります。
ジェイコブ2010年12月15日 01:25
では、とりあえず、前々回に少し触れておいたウィトゲンシュタインの文言を梃子にして話を進めさせて頂きます。猶、この文言自体、若干の修正と補足が不可欠と思われますが、その点は僕の解釈に反映されています。

 ところで、種々の人間を中心としてとり、かつ私が理解する全ての言語の中で、私を中心とする言語は特別な位置を占めている。この言語はとりわけ適切である。私はこのことを如何に表現出来るであろうか。即ち、私はこの言語の優位性を如何に正しく言葉で描出出来るであろうか。それは不可能なことである。というのも私を中心とする言語でこのことを行おうとすれば、この言語に固有な用語で当の言語を記述すれば例外的な位置が与えられることは何ら驚くべきことではないし、また他の言語の表現様式では私の言語は決して特別な位置を占めないからである。―特別な位置は適用に存しているのである。そして私がこの適用を記述する場合でも、記述は記述がそれによってなされる言語に依存するが故に、特別な位置は表現にもたらされないのである。そしてどの記述が私の念頭にある当のことを意味するのか、ということも、再びその適用に依存するのである。
 諸言語の間を実際に区別するのは専ら適用である。ところで適用を度外視すれば全ての言語は等価値である。―これらの言語は全て、唯一比類のないことしか描出せず、それ以外のことを描出出来ないのである。(描出されることは、多くの中の一つのことではなく、又それへの対立物もあり得ない、という考察方法と、私は"私の"言語の優位性を表明出来ない、という考察方法。これら二つの考察方法はいずれも同じ結論に至るに相違ない) (ヴィトゲンシュタイン「哲学的考察」)

「私を中心とする言語」の内実については、前回述べたので割愛させて頂きます。
先ず、引用した文言に登場する「例外的な位置」(引用文の七行目)と<特別な位置>(これが<私>なる錯覚を生み出すのですが)の差異に注目するべきでしょう。「前者」は、記述で表現される・内容的規定に組み込まれるものであり、人格的私秘性も含まれます。<後者>は、記述や発語(精確には、言語ゲーム)には決してあらわれない概念把握と<ココロ−コトバ>に関係しています。
解り易く言えば、記述や発語が伝達されるのに対し、概念把握や概念の適用は伝達不可能であるということです。"僕"なら、概念把握や概念の適用は[土田なる身体であること]に受肉している<ココロ−コトバ>において為されるが故に記述や発語にはあらわれることが出来ない、と"言明する"でしょう。
ジェイコブ2010年12月15日 02:24
 「私」という語が使われているのに、私という唯一の特別な中心が存在しない世界はありうるか?世界を中心化された世界と見る哲学においては、これはありえないことになる。「私」という概念のうちに中心化の必然性がすでにあるのだから、それは必然的な事柄である。だが、その場合でもなお、"どの"中心化された世界が<現実世界>であるかは、偶然的な事柄なのである。 (『転校生とブラックジャック』p.169)

 世界を認識し働きかける主体が自分自身を反省していても、それだけでは現実の私を作り出すことはできないのはもちろんである。しかし、それだからといって、たとえば「なぜなら、それだけでは世界がそこから開けている唯一の原点を構成しえないからだ」などと言ってしまえば、今度は「世界がそこから開けている唯一の原点」が内容的規定に組み込まれてしまうだろう。そうなると、再びその規定を満たすものは何でも「私」でありうることになってしまい、現実の唯一の私はその規定では捉えられなくなる(もちろん「現実の唯一の私」でも同じである)。 (『なぜ世界は存在するのか』p.7-8)

慧眼の士なら理解して下さるでしょうが、『「私」という概念のうちに中心化の必然性がすでにあるのだから、それは必然的な事柄である』『「なぜなら、それだけでは世界がそこから開けている唯一の原点を構成しえないからだ」などと言ってしまえば、今度は「世界がそこから開けている唯一の原点」が内容的規定に組み込まれてしまう』―これらの引用文は、前回論じた「例外的な位置」に関係しています。
 
 そして私がこの適用を記述する場合でも、記述は記述がそれによってなされる言語に依存するが故に、特別な位置は表現にもたらされないのである。(「哲学的考察」)

対して、<特別な位置>に関係してくるのが、

 だが、その場合でもなお、"どの"中心化された世界が<現実世界>であるかは、偶然的な事柄なのである。 (『転校生とブラックジャック』p.169)

この部分です。

「そして、思考実験を使ってスコトゥスの個的存在性に文法的粉飾を施したに過ぎない<私>―今現に土田であるがアサファ・パウエルでもあり得た、つまり土田久作との関係が偶然的である<現実性>―などは概念的構成物に過ぎない、と。端的に言えば、似非問題の温床は、受肉している<ココロ−コトバ>と、概念的構成物である<私>を混同してしまうことにあるということです」
ジェイコブ2010年12月15日 03:35
>永井氏の〈私〉も、だから純粋に形式的な文法的要請としての「私」という語などと、いかなる関係もない。土田氏の批判は全く正しいのであり、「私」という語の文法的に不正な使用から生まれるエセ問題などは、単にナンセンスである。ただ、そのことと永井哲学とは呆れ返るほどに無関係であり、その批判が「〈私〉の存在」批判としては完璧に失敗しているという事実は疑いを容れない。それは、上野氏の「『無内包の現実』の無内包性を、『実質』に対比された『形式(形相)』の無内容性と同じものと見なす誤解」[8]と同一の誤解である。藁人形論法そのものであると言えよう。

今迄の記述でそれなりの説明は与えたつもりですが。

「同 4°」について。
答弁に値しません、割愛させて頂きます。

「δ 土田哲学の総括 」について。
ここも「信じがたい誤読」と言う他ありません。先ず、

>永井哲学: 【一】〈私〉の存在 ⇒⇒⇒ 【多】意識一般の成立 (非常識だが弱いドグマ)
 土田哲学: 【多】意識一般の成立 ⇒⇒⇒ 【一】〈私〉の存在 (常識的だが強いドグマ)

は全くの的外れです。他我問題が似非であるというのは、僕が前々から主張してきたことですし、そもそも僕は<ココロ−コトバ>と言っているのですから。

>土田哲学は言語体系に内在する視点から言語の外部を説明する営為であるので、言語外(言語以前)のものは、単に「言語ならざるもの」として一括りに捉えることしかできないからである(「言語‐事物」の二元論)。土田哲学における「唯独性」なる概念の定義が「言葉ではないもの」としてネガティヴな定義に留まらざるをえないことも、この消息を如実に示している。

僕の話が単純な二元論でないことは最早繰り返すまでもないと思います。あと、「唯独性」の定義は「言葉ではないもの」ではありません。限界付けられた全体性、或る意味での外部のなさに基づいた並列不可能性を指しています。

>だから、ただ「超越論的シニフィアン」[9]であるにすぎない「私」という語を、永井哲学における独在性の〈私〉と混同したりするのである。この調子では、「単独性」と「独在性」の区別[10]も何と読んだことやらである。言語の外部から言語の内部を“語る”ことはできるが、言語の内部から言語の外部を“語る”ことはできない。初めに〈私〉が存在するのでなければ、永井哲学は全く理解不能な神学である(かかる神学に対して言語の側から唯一可能な応答は、それを無視し去ることである)。畢竟、土田氏による永井哲学批判は、常識的世界観からの無理解な批判という意味において、精々が三浦俊彦程度の水準[11]を出ないのである。

記述と適用の区別、概念把握と[出来事]の関係性、いったい[<何>]が文法的粉飾によって「論証」された概念的構成物に過ぎないものと「混同」されてしまうのか―とりあえず今迄の記述を反芻して頂く他ありません。まともな読解力を具えた方であれば、基本的に僕の批判が文法の精査と概念分析に基づいていることは御解かりだと思います。
個人的には、概念構成と信念の関係について今更ながら考えさせられました。これは一つの収穫と言ってよいでしょう。
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