青山拓央氏(休火山)のエッセイへのコメント

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時間分岐/人生の棋譜
2011年02月18日13:32
情報系の学会誌に寄稿するエッセイの草稿です。時間や将棋についての特集号で、羽生名人も寄稿されるそうです。
文章やタイトル英訳に修正点があれば教えてください。(「棋譜化」は訳しようがない?)

時間分岐/人生の棋譜
Time Divergence/Game Records in Life

1.時間分岐

 将棋や囲碁やチェスの棋譜には、選択肢の時間分岐点が含まれていない。これがどういう意味かについて、紙面の許す限り、考えてみよう。

 われわれは日々の選択を、時間の分岐図としてしばしば描写する。たとえば、外に食事に出る可能性と食事に出ない可能性の両方が在るなら、時間のある時点でこの二つの可能的な歴史が分岐すると考えるわけだ。そして、この分岐点上には「決断」や「自由意志」といったものが置かれる。

 しかし、この描像には欠陥がある。分岐点上に何らかの決断Xが在るとして、食事に出た歴史と出なかった歴史を、それぞれ歴史A/歴史Bと呼ぶことにしよう。すると、決断Xは歴史Aにも歴史Bにも、同一のものとして含まれていることがわかる。分岐点はどちらの歴史にも共有されているからだ。だとすれば、決断Xによって食事に出た(決断Xがなければ食事に出なかった)、という言い方はもうできない。

 では決断Xは、分岐図上の別の場所に在るのか? 分岐図上のどこにそれを置いても、結局はうまくいかない。分岐点より前に決断Xが在るなら、それは分岐点上にある場合と同じく、選択に影響を与えることができない(どちらの歴史にも含まれているので)。だが、分岐点より後に決断Xが在るなら、今度は次の問題が生じる。決断Xを含む歴史が現実となり、それを含まない歴史が現実とならなかったのはなぜか? つまり分岐点上で、歴史Bではなく歴史Aが選ばれたのはなぜか?

 もちろん、この問いに対して、「決断をしたからだ」と答えることはできない。それでは、また分岐点上に何らかの決断を置くことになる。整合性のある答えは二つしかない。一つは、時間の分岐など本当はなく、だから可能性の選択などない、という答え。もう一つは、分岐点上での可能性の選択はまったくの偶然であるという答え。

 ここで「確率」という言葉を持ち出しても、現在の問題への答えにはならない。明日雨が降る確率が0.1パーセントしかなかったとしても、実際に雨が降るときには降る。では、どうして、この低確率の現象が実現したのか。その答えはやはり、偶然である。確率概念は、偶然的な諸現象の統計的な偏りを説明してくれるが、ある特定の一つの選択がどのようになされるのかは説明しない。

 二つの答えのどちらを見ても、人間の決断による選択という常識は、きわめて維持困難なものになるだろう。人間は、本当は選択などしてない(歴史には一通りの可能性しかない)か、あるいは、選択はすべて偶然にすぎないかの、どちらかになってしまうからだ。

2.人生の棋譜

 コンピュータは将棋を指すことができるが、そこに以上の問題は生じない。なぜならコンピュータは決定論的なシステムで動いており、特定の状況(局面だけでなくコンピュータ内のすべての状況をふくむ)では必ず同じ手を指すので、可能性の選択をしてはいないからだ。疑似乱数を使用した場合も、根本的な問題は変わらない。

 では、人間が将棋を指す場合はどうか。そこでは、日々の選択と同じく、何らかの決断がなされているように見える。だが先述したとおり、その決断を時間分岐図上に置くことはできない。ならば、じつは人間も決定論的に将棋を指している――自然法則の完全な決定下において――のだろうか。それとも、偶然の支配のもとで将棋を指しているのだろうか。いずれにしてもこれでは、「指している」というより「指させられている」と言いたくなる。

 分岐図上に決断は存在するのか。きわめて厄介なこの問いは、しかし、棋譜上ではすべて消されている。なぜなら棋譜とは、可能性についての時間分岐点を(つまり分岐図そのものを)けっして記述しないものだからだ。

 将棋の初期局面で、先手は30種類の手を指すことができる。そのすべての手に対し、後手は30種類の手を指すことができる。つまり、対局開始からたった二手の間に900通りもの可能性の分岐が生じ、そのうちただ一つだけが選ばれることになる。棋譜ではこの一連の過程が、たとえば「▲7六歩 △8四歩」のように記される。ここには、たった二つの情報(▲7六歩と△8四歩)しか書かれていないが、実際には、捨てられた他の可能なすべての手の情報が含まれている。棋譜は、そこに書かれた現実だけでなく、書かれていない他の可能性にも言及したものとして読まれなくてはならない。

 とはいえ、▲7六歩から△8四歩への間に何が生じたのかは、この棋譜に何も記されていない。考慮時間が記されていたとしても、▲7六歩からなぜ△8四歩への歴史が選ばれ、ほかの歴史が選ばれなかったのかについて、棋譜は完全に沈黙している。次の一手の考慮中に、人間の脳裏にはさまざまな思考が浮かぶが、そのどれか一つを真の決断(分岐した可能性を選択するもの)と見なせないことはすでに述べた。たとえ棋譜に考慮中の思考を次々と書きこんだとしても、どの思考が決定的要因だったのかについて、棋譜はやはり教えてはくれない。

 ここに、言語の本質の一つがある。言語は事物を切り分けることをその機能としており、そのため言語は、連続的な時間を細切れにする。▲7六歩から△8四歩へと至る流れを完全に言語化することはできず、可能性の分岐点は――仮にそれが存在するとして――、言語情報から必ず逸脱するものとしてのみ想定される。分岐点はたまたま記述されないのではなく、分岐点を記述しない/記述できないという点にこそ、言語の本質が現れているのだ。

 その意味で、人間の行為を記述する言語は、すべて棋譜の一種である。行為を言語で表わすことは、人生を棋譜化することだ。それが棋譜化である以上、ある行為をなぜしたのかについての究極的な答えはけっして述べられない。分岐点がどこにあるのかは行為の最大の謎であり、棋譜化とはまさにこの謎を公共的に覆い隠す作業である。

 人間社会は、棋譜化によるこの隠ぺいによって、今日のように成り立っていると言ってよい。もしこの隠ぺいが白日のもとにさらされ、人間はじつはだれ一人自分で選択などしていない(すべては決定済みか、あるいは偶然の結果)という「事実」が公共化したなら、倫理や価値判断の意味は根底から変化することになる。

 私が外に食事に出たとき、それが私の選択だと見なされ、行為の責任をも背負わされるのは、われわれが公共的な棋譜化を行なっているからだ。「食事に出た」という指し手が棋譜化されるとき、この棋譜は、「食事に出ない」という指し手もまた可能であったことを書いたものとして読まれなくてはならない(あの「△8四歩」の棋譜と同じように)。このとき、どうしてそのように読まなくてはならないのか――他の可能性があったことなど物理的には検証不可能なのに――と問い続ける人物は、人間社会から追放される。棋譜棋譜として読める人物だけが、人間社会という対局の場に参加することが許されるからだ。

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コメント

あじさい2011年02月18日 21:07
棋譜にかんしては、chess notationという言葉があるようです。「化」というのは、内容をちょっと追えない部分があるので翻訳しきれないですが...

というのも、「その意味で、人間の行為を記述する言語は、すべて棋譜の一種である。行為を言語で表わすことは、人生を棋譜化することだ。それが棋譜化である以上、ある行為をなぜしたのかについての究極的な答えはけっして述べられない。分岐点がどこにあるのかは行為の最大の謎であり、棋譜化とはまさにこの謎を公共的に覆い隠す作業である。 」のところ、直観的に逆のような気がしています。つまり、棋譜の場合は、時系列にそって記述されるけれど、責任や自由意志の前提のもとに行為を言語化することは、ある行為から規範的に遡って、究極的な答えを創造することではないかと。だとすると、行為を言語で表すことは、棋譜とは別の次元のことであるように思う人もいそうなので、このアナロジーの正当性に関する説明を加えた方が、「人生の棋譜化」の意味を理解しやすいかもしれません。

休火山2011年02月18日 22:15
なるほど、その意味では「行為」ではなく「行動」のほうがよいかもしれません。哲学者以外には伝わない差ですが、行動は実際にやったこと/やることなので、規範性のニュアンスが減じます。

chess notationは僕も迷ったのですが、notationだとどうも、棋譜自体ではなく棋譜の記法を指すようです。たとえばチェスだと、二種類の代表的なnotationがあるみたいです。
game recordsはコンピュータ・チェス関係の論文で見た表現ですが、こちらも自信はありません。
(分かる人、教えてください!)

しょうちゃん2011年02月19日 10:35
ネットで少し見てみると、a move recordという言い方もできるようですね。(a game recordのほうが一般的なようだけど。)
ところでrecordsは複数ですか?ゲームは複数ある?
棋譜化」はそのままは訳せなさそうですが、「化」の意味合いを出すとしたら、A view of life as a game record、Life viewed as a game recordのようなものが思い浮かびます。(a game recordをrecorded movesに置き換えることもできると思います。)

休火山2011年02月19日 20:15
> A view of life as a game record

これは良さそう。意味的にも本来は、複数形より単数形
ですね。
ところで上のエッセイは、ウィトゲンシュタインベルクソン添えといった感じですが、そろそろウィトゲンシュタイン抜きで哲学をしなければなりません。

ジェイコブ2011年02月23日 16:18
(注 []は[非概念−言語的なもの]、<>は<概念−言語>を強調する符牒と御考え下さい)
以前コメントさせて頂いたのですが、ここhttp:// mixi.jp /view_d iary.pl ?id=152 6480087 &owner_ id=1433 201で僕は事物としての[ニクソン]を例にして「事物の本質化」について語ったのでした。
事物が名指される<もの>として言語に組み込まれることで、それらの<名前>は文の構成要素となることが出来ます。かくして、
「<ニクソン>がアメリカの大統領でないことがありえた」
「<ニクソン>が警察官として生涯を終えることもありえた」
等々の文が構成される―上記のケースでは<偶然的事実>として―ことになります。
何れにせよ、参考にして頂けるというのは、有難いことです。

>分岐点はたまたま記述されないのではなく、分岐点を記述しない/記述できないという点にこそ、言語の本質が現れているのだ。

僕なら、[出来事]は記述にあらわれない、と言うでしょうね。
http:// mixi.jp /view_d iary.pl ?id=167 5189532 &owner_ id=2889 166&org _id=167 7952383
http:// mixi.jp /view_d iary.pl ?id=162 0199965 &owner_ id=4224 848&org _id=163 5006568
等々も何かの参考にはなると思います。

>このとき、どうしてそのように読まなくてはならないのか――他の可能性があったことなど物理的には検証不可能なのに――と問い続ける人物は、人間社会から追放される。棋譜棋譜として読める人物だけが、人間社会という対局の場に参加することが許されるからだ。

「問い続ける」かどうかは別にしても、こういう人はけっこういると思います、個人的には。この辺はまだ、覚めうる<夢>の圏域でしょうから。そして、この覚醒は、物理的な検証不可能性よりむしろ(見出された)[事物世界]の在り方に関する<知識>に依拠していると思われます。

御参考になれば、幸甚です。

休火山2011年02月23日 20:33
> 「問い続ける」かどうかは別にしても

たしかに、恒常的に問い続けることはできませんが、一時的に問うことはできますね。
(だから哲学も可能になる?)

ジェイコブ2011年02月23日 21:53
哲学すること=問いを「磨く」ことだと考えれば、磨いていく過程で消えてしまうものもあるでしょうし、おそらくは消えないで残るものもあるでしょう。答えがない、ありえないがゆえに―無疵の、不壊なる問い。
消せるものは消していこう、というか、消せないものはないはずだから出来うる限りじっくりと丁寧に磨いていこう消してしまおうというのが―前の段落の記述と矛盾するようですが―僕のMaximeです。

>たしかに、恒常的に問い続けることはできませんが、一時的に問うことはできますね。(だから哲学も可能になる?)

もちろん否定はしませんが、少なくとも先程のケースにおいては、問いが空転していますよね。それを哲学の成立条件と規定するなら話は別ですが。個人的には白票を投じたいですね。

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