「本質」について―青山拓央氏(休火山)との遣り取り―

Why □Water=H2O ?
2010年06月30日16:31
『名指しと必然性』を再読中ですが、第三講義、水がH2Oであるとか、金は原子番号79であるといった言明は、結局、どうして必然的なのですか?

もっと細かい論点の解説はたくさんあるのに、こんな基本的な論点のちゃんとした解説が、なぜか見当たりません。説得的な解説を知っている方は教えてください。

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コメント

はじめる2010年06月30日 18:14
あくまでも印象ですが、
件の必然性は、H2Oが水の本質であると見出されたならば、原子番号79が金の本質であると見出されたならば、という、条件付きのものであった気がします。
そして、どういうものがそのものの本質として見出されるのかということについては、実は?そんなに議論がなかったように思います。

休火山2010年06月30日 20:14
> 実は?そんなに議論がなかったように思います。

そうですね。本質の解明において、なぜ物理化学が特権的なのか? その具体的な説明はなかった気がします。同一性言明の必然性という第二講義までのテーゼから、直接導けるとも思えません。

また、アリストテレス本質主義のもと、物理化学は種の(類の)本質解明を目指す学問だと考えることはできますが、そのことから、現状の物理化学の知識が必然的とは、もちろん言えません。


休火山2010年07月02日 16:56
ううむ、みんな忙しくてコメントできないという可能性を除けば、この件についての公認の論証はない?

アルモグのクリプキ批判などについては、『分析哲学プラグマティズム』(岩波講座)に書いてありました。しかし、これも上とは関係ない。

おしのび2010年07月03日 14:20
休火山さん

>本質の解明において、なぜ物理化学が特権的なのか?

公認の論証等は知りませんし、ただ何となく漠然と思うだけのことなのですが、
物理化学が行う本質解明にとって、何らかの「幾何学的構造」の発見ということが重要で、
それがここでの「必然性」とも関わっているのかな、と…。
本当にまだ漠然と思っているだけなので、これ以上何とも言えませんが…。

ジェイコブ2010年07月03日 19:47
H2Oは名前(コトバ)ではなく、水(名前)と呼ばれている[事物]の在り方―このケースでは構成要素、つまり構造(内的関係)上の必然性ということなのでしょうが―を指し示している、と考えてみては如何ですか。
「我々の言語ゲームにおいて水と呼ばれている[もの]は、H2Oという在り方をしている」
とはいえ、これを必然的と言ってしまうのはミステイク(御指摘の通り、「知識」は必然的とは言えないように思われます)なのでしょう。

御参考になれば幸甚です。

休火山2010年07月03日 21:16
やはり「構造」がポイントですね。私見では、第三講義での科学は"顕微鏡の科学"で、ある対象の時空領域を精査すれば、その対象の構造=本質が分かる、というものだと思います(時空的同一性が重責を担っている)。

かぷりこ2010年07月05日 18:47
何度読んでも本書は敷居が高く、とりわけ第三講義は理解していないに等しいのですが、研究会の準備でこの箇所を熟読したので、間違いを恐れつつ(!)、いちおう私見を述べます。

1. 自然種名の言葉は固有名に近い(邦訳150頁):
2. 固定指示子どうしの同一性言明(R1=R2)は必然的である(邦訳169頁)

という前提があります。固有名は固定指示子で典型であり、クリプキは「熱」も「分子運動」も固定指示子だと考えるので、「熱=分子運動」は必然的命題であると考えます。2の前提がなぜ成り立つのかは、休火山さんの最後の理解をクリプキが得ているからだと思います。つまり、固定指示子は唯一の世界の固有の対象=時空領域をさすので、固定指示子どうしの同一性は必然的である、と考えているのでしょう。(明言していませんが、169頁をそう読みました。)

また、その前の邦訳の168頁で、「このテーブル」ではなく「あるテーブル」の問題だとか、「これらの概念を事象様相に適用することはおかど違いだ」とあり、関心はタイプ間の同一性にあることを述べます。こうした書きぶりから、クリプキの関心は、ものの必然性ではなく、ものを指す言語の側の必然性の問題であったように思います。(科学の言語、心理学の言語)

ただ、そのあとの、「痛み」と「C繊維刺激」の同一性を考える箇所で、「痛み」は言語の問題ではない、ということを言っているように思われるのですが……。

休火山2010年07月05日 20:12
ありがとうございます。前半は同意見(同じ読み)です。

> クリプキの関心は、ものの必然性ではなく、ものを指す言語の側の必然性の問題

ここが微妙なところですね。少なくとも固有名に関しては、言語ではなくものの必然性(および同一性)が重要なわけですが、自然種などのタイプの話はどうなのか?

第三講義の分からなさは、第一・第二講義と似た話をしているように見えて(それゆえ論証も省かれていて)、実は違う話であることに起因するように思います。



ジェイコブ2010年07月06日 01:11
長文の引用で心苦しいのですが、、、

別の両親、全く違う精子卵子から発生した人物が、如何にして正にこの女性であり得るのか。その女性が与えられたとして、彼女の一生で様々なことが変わり得たと想像すること、即ち彼女が貧民になった、彼女が王家の血筋であることが知られていなかった、等々と想像することは出来る。-略- 従って、たとえ彼女がこれらの両親から生まれたとしても、彼女が決して女王にならなかった、ということは可能である。-略- しかし、それ以上に想像し難いのは、彼女が別の両親から生まれるということである。何であれ別の起源から生ずるものは、この当の対象ではないように私には思われる。(「名指しと必然性」邦訳136頁)

ここでクリプキは、[もの]と<もの>を混同しているように思われます(実はこの混同が本書全体を貫いているのですが)。
時空的同一性によって担保される[もの]と、コトバによって指示される<もの>との混同ですね。後者は名指しを介して言語ゲーム〜「事柄」空間に組み込まれる(僕はこれを[事物]の<本質>化と呼んでいます)わけですが、それによって様々な文法と接合することが出来るようになります。従って、

「<ニクソン>が一九六八年の選挙で負けることはあり得た」
「<ニクソン>は存在しないこともあり得た」
「<ニクソン>があのような生涯を生きたことは必然的であった」 等々の「事柄」が構成されることになります(*[ニクソン]について「そのようなこと」は言えない、何故なら[それ]は<もの>ではないから―というのが僕の哲学的見解です)。

本書について言えば、a.[出来事]−語り得ぬもの b.<対象>−語り尽くしえぬもの c.「記述」−語られること の区別が明確に理解されているとは思えません。本書で繰り返し語られる b.とc.の区別にしても、[事物]の探究と文法の関係が未整理である為に、[事物]の在り方と言語が要請する必然性を混同させてしまいかねない記述が散見されるように思います(私見ですが、[事物]の在り方について記述する際に、必然的とか偶然的といった文法を使うのはミステイクなのでは―業界的に如何なのかは知らないのですが)。

御参考になれば幸甚です。

休火山2010年07月06日 13:33
私だけでなく皆が、第三講義に困惑していることがわかって良かったです。

しかし『名指しと必然性』は良い本だ(読者の頭を動かす)。

かぷりこ2010年07月06日 19:54
修正ですのでお気になさらず。

>クリプキの関心は、ものの必然性ではなく、ものを指す言語の側の必然性の問題であったように思います。

ものの同一性の必然性ではなく、同一性・言明・の必然性の問題であった、ということです、少なくとも第三講義において問題になっているのは。(もの必然性というのは、指示の固定性とも言えるのですが、□(水=H20)における「必然性」はそうでないところで言われている。)

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