「二つのドグマ」について【一部修正】―青山拓央氏(休火山)との遣り取り―

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講義メモ:二つのドグマ
2011年02月12日14:02
 論文「二つのドグマ」について、ちょっとした補足をしておきます。「二つのドグマ」は大きな反響を呼ぶとともに、「一刀両断」的なその議論に多数の反論も寄せられました。なかでも批判が集まったのは、論理法則を含めたあらゆる命題が経験的修正の対象になるという、知識体系全体へと全面化されたホーリズムの考えです。もしこれが正しいなら、私たちはそもそもどうやって、理論を改良していけばよいのでしょうか。というのも、修正前の理論と修正後の理論の善し悪しを比較するには、その両者を見渡すための論理が必要であり、この論理自体は修正の対象外であるべきだからです。

 しかし、この批判は「二つのドグマ」の主張の核心を損なわないでしょう。さきほどの比喩のとおり、知識体系という場には周辺に近い部分もあれば、中心に近い部分もあります。あらゆる知識はその修正可能性において対等ですが、しかし、中心からの距離には多様性があります。つまり、私たちの「保守主義」のもとでの修正頻度には多様性があるのです。

 理論を改良していくにあたり、いま事実として中心部にある知識を基軸に、周辺部の知識を修正しがちなのは、自然なことです。基軸となる傾向があるからこそ、それは中心部へとやって来たのです。だから、中心部の知識にあらかじめ、特権的な必然性を与えてやる必要はありません。そして中心部に位置する知識がつねに同じものである必要もありません。地球の輪郭が変化すればその自転軸も移動するように、理論の輪郭が変化すれば、理論全体を滑らかに動かす回転軸の位置も移動します。このとき、「不動の回転軸がなければ、同じものを回転させることはできない」と言うのは馬鹿げているでしょう。理論は中心軸を移動させながらも、理論としての同一性を保つことができます。

 論理法則のほとんどは、いま事実として、私たちの知識全体の中心にあります。ですから、それが修正されるとはどのような事態かを私たちは理解できません。クワインの挙げた量子力学の事例は、従来の論理とそれを修正した量子論理とを見渡す視点から語られていますが、この俯瞰的視点は従来の論理を足場としています。量子論理は従来の論理のごく一部を変えたものであり、「量子力学の説明においては量子論理のほうがうまくいく」という判断も、従来の論理のもとで理解可能です。つまりこの事例は、知識の中心部から従来の論理が追放される状況を描いたものではありません。そんな状況は、私たちには想像さえできないのです。

 にもかかわらず、中心部にあるこの従来の論理が修正されることはありえる――、これこそが全面的なホーリズムの帰結でしょう。それがどのような修正であり、新しい論理は過去の理論に比べてどのように優れているのかを、いま述べることはできません。しかし、この強固な想像不可能性こそが、従来の論理が全知識体系の中心にあることを私たちに教えてくれるのです。

 ここで興味深いのは、現時点で知識の中心にある論理が、ホーリズムの理解をも可能にするものだという点です。ホーリズムに説得力を与える論理自体が、知識の中心部には含まれています。ではそこが、まさにホーリズムの論拠にそって、修正を受けることはありうるのでしょうか。ホーリズムそのものがホーリズムによって破たんするとは、どのような事態でしょうか。

 この問題への答えはこうです。それがどんな事態かは、そのときになれば分かる。しかし、そのときにならなければ、けっして分からない。だから本当は現時点でそれを「破たん」と呼ぶこともできない――。全面的なホーリズムとは、このような答えを答えとして認めるとき、はじめて理解されるものです。全知識体系に中心部があることは、この「分からなさ」によってのみ知られるのであり、現時点から見て破たんだと分かるような破たんは、知識の中心部に触れる破たんではありません。

 残される問題は、どのような事態かが分からないのにそれが起こりうるとなぜ言えるのかですが、これについて私は説得的な応答を知りません。ただ一つだけ言っておきたいのは、ここでうまく応答できないからといって、全面的なホーリズムが論破されるわけではないということです。全面的ホーリズムはそのとき、論破されるのではなく無視されます。そんなものは無視して、数多くのブロックへと小分けにされた知識をそのブロックごとに検証していくという、科学者たちの日常が戻って来ます。ホーリズムはこのとき穏当化され、ブロック化される――各ブロックの内部でのみ成立する――わけです。

 ですが、全面的ホーリズムはまだ死んでいません。この冷淡な無視を可能にするものこそ全知識体系の中心の形成である(ブロックとブロックの切り分け方もまた、その中心に依存している)というのが、全面的ホーリズムの真意だからです。もしこの見解を嘲笑するなら、経験的修正を受けつけない必然的真理がなぜ存在しているのかについて、自分の答えを述べるべきでしょう。全面的ホーリズムは、そのような真理が存在しているように「見える」理由を、比喩的にではあれ語っているからです。

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コメント

はじめる2011年02月12日 15:27
>現時点で知識の中心にある論理が、[…]修正を受けることはありうるのでしょうか。ホーリズムそのものがホーリズムによって破たんするとは、どのような事態でしょうか。

勝手に省略して、第一文と第二文と見なすとします。この第一文と第二文は同じことだろうか、という疑問を持ちました。

休火山2011年02月12日 20:28
講義中の「量子論理」はたぶん、「三値論理」の間違いです。

第一文と第二文は別のことですが、前者から後者が導かれるのではないか、との講義内容です。いま手元にないのですが『意味の全体論』にホーリズムの自己論駁性の話があって、それを念頭に書いた箇所です。

ジェイコブ2011年02月23日 17:10
>残される問題は、どのような事態かが分からないのにそれが起こりうるとなぜ言えるのかですが、これについて私は説得的な応答を知りません。

明瞭な像を描けない事態について「起こり"うる"」と「言い"うる"」のは何故か。

端的な応答として―我々は「理解可能/不可能」と「存在可能/不可能」を区別しており、後者は<自存的(認識及び意味論的様相からの独立性)である>…要するに我々はそのような存在-超越概念を把持しているのであり、当にこの問題においては<事態がそのようなものとして把握されている>―という語り方は考えられますね。他に挙げるとすれば―変化するもの=内容に組み込まれ得るものとそれを可能にする基体=内容に還元不可能なものとの区別が予め言語に組み込まれているから(それは我々が「起こり"うる」"と「言い"うる"」ことに示されている)―でしょうか。

御参考になれば、幸甚です。

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