語り得ぬものと語られること ―真理・他者・相対主義・世界―

本稿の目標は、野矢茂樹『語りえぬものを語る』(以下『語る』と略記)と入不二基義『「語りえぬものを語る」で語られないこと』(以下『語られない』と略記)の批判的検討を通して、相対主義の問題における哲学的混乱を解消することである。
私見によれば、この哲学的混乱は、文ないし主張とそれを真/偽にする[存在]の区別に関する無理解および、[他者]の問題を習得不可能性とか思弁空間の他者といった次元で捉えようとする錯誤([存在]論的断絶に対する感度のなさ、と言ってもよい)に由来するのであるが、それらを自覚せずして哲学的混乱の解消はありえないのである。
猶、本稿に頻出する記号[ ]は、文ないし主張(言語)に回収不可能な[もの]を指示もしくは強調する符牒として採用されたものである。


1.基本前提の確認/主張あるいは思想としての相対主義
本題に入る前に、我々の言語が前提しているいくつかの事柄について確認しておく必要がある。


前提①.我々は文ないし主張とそれを真/偽にする[存在]の区別を理解しており、その区別が成立している限り前者に[後者]を組み込むことは出来ない。この場合、[存在]は文ないし主張の[外]に在る。

以下の文ないし主張と、それらを真/偽にする[存在]の関係について考えてみてほしい。
バラク・オバマアメリカの大統領になった」
バラク・オバマアメリカの大統領になったことは絶対的に正しい」
バラク・オバマアメリカの大統領になったという主張は絶対的に正しい」
バラク・オバマアメリカの大統領になったという主張が絶対的に正しいという主張は絶対的に正しい」
バラク・オバマは2008年のアメリカ大統領選で敗北し、米国史上初の黒人大統領にはなれなかった」
既にお解りだと思うが、上に挙げた文ないし主張を真/偽にする[存在]は文ないし主張ではありえない。たとえば、いま私が「絶対に正しいものなんて存在しない」と主張すれば「絶対に正しいものなんて存在しない」なる文ないし主張が絶対的に正しくなる(真になる)わけではあるまい。
では、ここでその主張を真/偽(あるいは、無)にする[存在]とは何か。この点に関する野矢の論述は混乱しているように見える。


真理の相対主義はこのように言う、「世の中に、絶対的に正しいものなんてありはしない」。すると意地の悪い人がこう問うのである。「絶対に?」 
絶対的に正しいものは、絶対に、ないのか。何と答えよう。「そう。絶対に」と答えると、阿川さんのお父さんのようなことになる。「絶対的に正しいものはない」という主張それ自体は絶対的に正しいというのでは、自らその主張の反例を示していることになる。しかし、「絶対というわけじゃないけど…」とか答えると、「じゃあ、絶対的に正しいものもあるかもしれないってこと?」などとつけこまれることにもなるだろう。いや、実際、どう応じればよいのか。(『語る』41頁)


「絶対的に正しいものはないという主張は絶対的に正しい」という主張は「絶対的に正しいものはない」という主張を偽にするだろうか?
―否。
ポイントは、前提①が満たされているケースでは、文ないし主張を絶対的に正しいもの(真)にする[存在]は文ないし主張自体ではないということである。問われているのは主張ないし文が自らの[外]に指し示している[存在]の存否であって、主張や文の意味ではないのだから。
従って、自ずから次の前提が導出される。


前提②.文ないし主張とそれを真/偽にする[存在]の区別は、我々の言語の基本的な機能である意味と指示に対応している。換言すれば、我々は文ないし主張とそれが指示する[存在]の区別を理解している。
(辿り着くべき[存在]を欠いた指示と言語ゲームにあらわれない[存在]については論じる余裕がない)

そして、前提①と②から以下の前提が導出される。


前提③.[存在=真理]であるような次元が存在する。それは、我々が真なる文ないし主張と[存在=真理]の区別を理解していることに示されている。対して、文ないし主張を真/偽にする[存在=虚偽]などありえない。虚偽とは語られるものでしかありえず、[存在=真理]は語りえない。


とはいえ、何事にも例外というものは存在する。たとえば、いま私が「私はアブラカダブラと言った」と主張するとき、その主張を真にするものはその主張行為それ自体であろう(無論、主張を”主張として”成立させている言語ゲームの存在を忘れてはならないのだが。「いま私はアブラカダブラと言っていない」という主張についてはどうか)。
ここから次なる前提が導出されることになる。
 
前提④.主張とそれを真にする[存在(主張行為)]の一致を語りうるケースが存在する。


とりあえず、以上で前提の確認作業は終了である。次章では、「すべての主張はそれがよって立つ立場に相対的に真なのであり、絶対的に真な主張などありはしない」という主張(以下、主張Rと略記)と先の前提を突き合わせることで、『語る』と『語られない』が共有している哲学的混乱を解消したいと思う。
 

2.[世界]の内なる相対性/[世界]それ自体の絶対性
それでは先ず、主張Rと前提④を突き合わせてみよう。主張Rは前提④を満たしているだろうか?
もし、世界に主張を為しうる存在者がひとりしか存在しないならば―核戦争後の地球で唯独り生き残った生命体が自分であるような状況を想像してみよ―主張Rは前提④を満たしえないだろう。そのような世界でひとりの存在者が主張Rを為しても、主張Rが真になることはないであろう。何故なら、主張を”主張として”成立させている(主張は公共言語と、[存在]論的に断絶した[他者]なしには成立しえない。また、公共言語はそのような[他者]なしには成立しない)言語ゲームが存在しない[世界]、何より[存在]論的に断絶した[他者]がいない[世界]は主張Rを真にしないからである。
だが、[存在]論的に断絶した[他者]とは何か?  
この問いに答えるためには、主張Rと前提①〜③を突き合わわせつつ、主張Rにおける「立場」というものの内実を明確にする必要があるだろう。私見によれば、『語る』と『語られない』に共通する哲学的混乱はこの「立場」の解釈に示されている。以下は『語る』46頁からの引用である。


立場αでは相対主義が正しく、立場βでは絶対主義が正しいとしよう。そのとき、相対主義者は立場βを選択するという可能性を本気で引き受けることができるのだろうか。あくまでも相対主義者として立場βを選ぶということは、「私は立場βを選んだので絶対主義を主張するが、選択肢としては立場αもありえたのだ」と考えることにほかならない。しかし絶対主義はまさに自分の立場を絶対的と考えるのであるから、絶対主義に立つや否や、立場βを絶対的に正しいものとし、立場αを絶対的に誤っているものとして切り捨てるだろう。絶対主義は立場の複数性を否定する。他の立場の可能性を選択肢として残しつつ絶対主義になるということは、ありえないのである。
だとすれば、相対主義をとり続けようとする者にとっては、立場βはとりえない選択肢でしかない。


この引用文にはいくつかの問題が伏在しているのだが、それらを一旦脇に除けて、引用文自体をひとつの主張と見做すなら、これは殆どとるにたらない主張だと思う。それは単に「相対主義者が相対主義者でありつつ絶対主義者であることは論理的に不可能」と言っているに過ぎない。
ポイントは、人物と××主義の区別―精確に言うと、存在と内容の文法的区別にある。それは、たとえば我々が「マルクスは資本主義者でもありえた」という文を理解していることに示されているだろう。野矢の問題設定では、(人物ではなく)”ひとりの相対主義者”が立場α−相対主義か立場β−絶対主義のどちらかを選択するという話になっており、××主義と区別された人物を問題にする余地は最初から奪われてしまっている。これは議論上致命的な欠陥だと思う。
野矢を引き継いだ入不二の議論について言えば、相対主義者に代えて複数の立場を俯瞰しうる”ひとつの”「視線」(「人物」を言い換えただけとも言える)を登場させることで、先の欠陥からは免れている。しかし、野矢と同様、入不二の議論においても、存在するのは”ひとつの”視線であり、[他者]が現れることはない。
要するに両者の議論では、相対主義の問題が”ひとりの”存在者に開かれた複数の「仮想的立場」の選択に関する問題に頽落してしまっており、[存在]論的断絶が生み出している真の問題―私はそれこそが相対主義を「問題」たらしめているのだと思う―は見失われているように思える。
野矢が「相対主義は主張ではない」というとき、真に問われなければならないのは主張Rを真にしているような[現に今我々が生きている地平]なのであって、それこそ我々が[世界]とか[現実]と呼んでいるものに他ならない。野矢の言う絶対性(『語る』47頁)とは本来そのような[世界]に冠せられるべきだった筈である。

最初の問いに戻ろう。これまでの論述で明らかになったと思うが、主張Rにおける「立場」は仮想的なものではない。この「立場」は[存在]論的に断絶した [工藤] [野矢] [入不二] …を指し示しているのである。
[存在]論的に断絶した[他者]は、主張の内容や仮想的立場に回収不可能な[もの]である。真の問題は、[存在]論的に断絶した[他者]を含み込んだ[世界]が現に今在ってしまっていること、そのような[世界]の存在にあるのだから。主張Rは真である。


最後になってしまったが、ひとつの事柄を例に主張Rの真理性を指し示して本稿を閉じることにしたい。
「殺人は絶対的な悪である」と本気で主張するA氏はおそらく、殺人が絶対的な悪であることは個々の主張や人物を超えて(即ち絶対的に)真だと考えている筈である。翻って、「殺人は相対的な悪である」と本気で主張するB氏は同時に「僕にとって殺人は絶対的な悪である」と本気で主張することも出来るだろう。
いま仮に、A氏の立場を殺人の悪性に関する外在型絶対主義、B氏のそれを外在型相対主義+内在型絶対主義と呼ぶことにする。
さて、両氏の主張は主張Rの真理性を指し示せているだろうか?
―否。
また、前章で述べたように、両氏の主張が主張Rを真にすることもない。

個々の主張内容は問題ではないのだ。[A氏]と[B氏]が主張を吐き合わせていること、[そのこと]こそが主張Rを真にしているのである。しかし、究極的には、[存在]論的に断絶した[他者]を含み込んだ”ひとつの”[世界]が在るという唯それだけのこと、即ち[世界]それ自体の絶対性が―主張Rとは無関係に―[世界]の内なる相対性を担保しているのである。


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