『語りえぬものを示す』1における『哲学探究』解釈およびその他の批判

本稿では、永井均『語りえぬものを示す』(以下『示す』と略記)1と『私・今・そして神』(以下『神』と略記)第3章の議論を比較参照しつつ、その不整合な点や誤謬の解消を試みる。
猶、本稿は『示す』1~3の議論については論じない。その野矢批判は真っ当なものであり、特に筆者が付け加えることはないと思われるからである。よって、以下の点を指摘しておくにとどめる。
『示す』の野矢批判は、『ウィトゲンシュタインパラドックス』におけるクリプキの論述を踏襲したものに過ぎず、永井のオリジナルとは言い難い。先ずこのことを示してから、本題に入ることにする。

1.『ウィトゲンシュタインパラドックス』と可能な私的言語
始めに述べておいたように、永井の野矢批判は『ウィトゲンシュタインパラドックス』(以下『逆説』と略記)の焼き直しに過ぎない。その意味では極めて「懐かしい」(『逆説』は1982公刊)ものである。
その批判を要約すると、次のようになるだろう。
①.野矢の言う私的言語「E」は彼の主張に反して可能である。何故なら、それは、公共言語を身に付けたと認められた人物がある新しい体験を同定したと主張した場合―たとえその体験が公的に観察可能な何ものにも関連していなくても―我々はそれを尊重するということの一例に過ぎないのだから。
②.野矢は、一人称現在の感覚言明の不可謬性と不可能な私的言語のそれを混同している。本来ならば、不可能な私的言語については不可謬性を問題にすることすら出来ない筈なのである。

いずれも妥当な批判であるが、既視感は拭い去れない。以下、『逆説』の引用と比較参照してみよう。


我々は、完全によく同定できるが、しかし「自然な」外的現われを有しない感覚あるいは感覚の質を持っている、と思われるのである。したがって観察者にとっては、ある人がそのような感覚や感覚の質を持っているか否かは、その人がその事をアバウアルで明らかにしない限り、どうしても知りえないのである。−略− 話者に、彼自身のまじめなアバウアル以外には「外的規準」が存在しないような、ある感覚語の導入を許すであろう。−略− そのような話者の言語は、しかしながら、たとえ感覚についての言語であろうとも、「私的言語」という問題の多い形―そこにおいては、彼が「正しい」と言うものは何であれ正しい―をとりはしないだろう。その話者は、「公的な基準」を有する多くの感覚について、それらの感覚を同定するための適切な用語をマスターしている、という事を実地に示すことが出来るのである。
もし、我々が、種々の感覚についての十分に多くの場合において、彼が示す言語的反応に同意するならば、我々は彼について、彼は「感覚言語」をマスターした、と言うのである。彼が示す言語的反応は全て、その限りでは、我々による外的訂正を受け得るものである。
しかし、もし彼が感覚言語一般をマスターしたと認められるに必要な諸規準を満足したとすれば、その時我々は、ある新しいタイプの感覚を同定した、という彼の主張を―たとえその感覚には公的に観察可能なものは何も付随していないとしても―尊重する、という事は、感覚に関する我々の言語ゲームの原初的部分なのである。かくしてこの場合、そのようなアバウアルに対する唯一の「公的規準」は、彼のまじめなアバウアルそれ自身になるであろう。 (『逆説』201~202頁)

種々の規則をマスターした、と認められるための規準を満足する事によって、一度共同体に受け入れられた話者にとっては、―彼がそれをマスターしているという事が、他の人々は誰もチェックすることが出来ず、ただ、彼が共同体の一員であるという事に基づいて仮定されるだけの―規則が存在するに違いない、という事を許すのである。これは全く、言語ゲームの基本的特徴である。 (『逆説』203頁)


上の引用文と、『示す』2頁26~36行・4頁24~32行・9頁7~21行・14頁6~11行および注15を比較して頂きたい。既に『逆説』が、件の批判で示された論点の全てを含んでいることに気付かれる筈である。


2.『示す』4および『神』第3章その他の批判
さて、前置きはこれぐらいにして、いよいよ本題に入ることにする。一言で言えば、本章における筆者のアプローチは、個別的かつ微視的な分析の行使であり、統合的な見解を打ち出すものではない。
猶、『示す』および『神』からの引用については、基本的に頁行の提示のみにさせて頂くことにする。

①.『示す』10頁24行~11頁13行
→永井の主張に反して、並列不可能で唯独つの視野が在ることは、独我論的主体たる「私」が固有名に置換不可能という論点と無関係である。そもそも視野は視覚が成立する[場]であって、視野自体を見ることは出来ない(従って『本当に見えているもの』とは”言えない”わけである)し、視野は固有名で名指される工藤の身体と不可分である(端的な事実!)。
→見えているものが他者に見えているものと隣り合うことは、独我論的主体たる「私」が固有名に置換可能ならばL.W.にはこれらが見えているがS.N.にはあれが見えているという対比が生じるという論点と無関係である。見えているものは視野ではなく、事物世界に存在する個物たちなのだから、対比が生じるのは当然である。
②.『示す』11頁14~18行
→ここは「私は持続的存在者である」と言っているに過ぎず、「今」が特定の異時点に置換可能という論点は無関係である。付言すれば、私は「2011年11月5日の午前9時にあれが見えていた」のを端的に憶えているのであって、異時点の私に何かを「伝え」ているのではない(端的に不可能!)。
③.『示す』12頁の注11および『神』193~197頁
→『神』第3章において、永井は、公共的言語と客観的言語の区別を立てた上で、私的言語相互のカテゴリー的連関の把握こそが客観的言語成立の要件であると論じている。しかし、永井の主張に反して、そこで論じられているのは、既に公共的言語を身に付けた持続的個人(人格)が新たに生じてきた複数の内的感覚に私的名付けを行うという思考実験に過ぎない。ここでの論述を読む限り、永井の主張する客観的言語は不可能であると言わざるをえない。
④.『示す』13頁4~12行および注12
→そもそも言語規則の記憶からの独立性は「熟知性」に関係している(cf.『哲学的文法1』54節)。
「この痛みは10年前亀裂骨折したときの痛みに似てるなあ」と思ったとき―これは記憶に基づいた判断であるが、判断は記憶ではない。
→「熟知性」が一人称現在の感覚言明の不可謬性を担保している。
→永井によれば、「私には緑に見える」は実は「私には「私には「緑」だと思われる色」に見える」という二重内在化構造をなしているというが、これが知覚の本性に関する現象学的主張でないことは明白であろう。しかし、永井は、一人称現在の感覚言明を例にして言語規則と記憶の融合を論じていたのであって、それをそのまま知覚言明に適用出来るかというと疑問が残る。問題は知覚言明を内在的に解釈出来るかということだが、筆者は完全に否定的である(言うまでもなく、これは文法問題である)。
→1.実在の次元/2.知覚「私は緑色だと思う」「あれは緑色に見える」/3.錯覚「一瞬蛇に見えたけど、よく見るとロープだった」/4.幻覚「裂けた地面から三匹の巨竜が飛び出してきた」の差異。言うまでもないことだが、幻覚は実在との連関を持たない。
→2.知覚に注目せよ。「私は緑だと思う」「私には緑に見える」これら二つの文の使用に本質的な違いはない。
⑤.『示す』14頁3~14行
→『逆説』の論述が援用されている(cf.前章の引用文)。「僕」の発言「僕は今「E」を感じているんだ」に意味を与えるのは「私」であって「僕」ではないという話は、永井の言う実体化とか人称化とは無関係であろう。③で論じたように、そもそも永井の言う客観的言語は不可能だと思われるからである。
⑥.『神』214~215頁
私見によれば、言語規則は記憶を改竄する力を持たない(”擬似”記憶は除外する)。
永井の思考実験を例にしよう。眠っている間に「赤」とか「青」といった言葉の意味が逆転してしまったとする。朝起きたら、「昨日と同じように空は赤く血は青い」のだろうか。
先月南伊豆へ旅行したときに私が友人に「こんな青く澄みきった海はそうそうないなあ」と言った記憶を改竄する―「こんな赤く澄みきった海はそうそうないなあ」と言ったことにする―言語規則にそのような力はない。「記憶もまた意味の同一性に支えられてはじめて可能になる」という永井の主張は誤りである。
→永井の主張に反して、言語規則は「熟知性」に支えられている。

*筆者の許可なき引用・剽窃・模倣等は固く禁じます(法的措置もありうる)。