<私>の形而上学を解消する ―《私》の文法的構成と<私>なる錯誤―

始めに言っておくと、私は永井哲学における二つの支柱―<私>の形而上学と「私」の生成論―は互いに独立であり、各々個別的に検討されるべきだと考えている。私には両者とも多くの不整合と混乱を抱えているように見えるが、今回は特に前者を検討しつつ、文法の確認作業が形而上学的な探究へと誤認されていくプロセスを示すことにしたい。


1.《私》の文法的構成を開示する
・永井の言に従えば、《私》とは「自己意識を持つ身体的存在者との関係が偶然的であるような《現実性一般》のこと」である。

・永井は《私》の存在根拠を【様相的文脈における一人称代名詞「私」の用法】に訴えることで確保しようとする。その際に、たとえば「私は現に今オバマであるが、鳩山でもありえたし、そもそも私が存在しないこともありえた」といった文が援用される。
→【様相的文脈における固有名の用法】や【「XがYになる」という文法における固有名の用法】との対比が強調される。たとえば「オバマ朝青龍でありえた」とか「オバマ朝青龍になる」という文の意味は判明とは言い難いだろう。同一性の基準と独立にひとつの名前は唯一無二の<そのもの>を指すという我々の固有名の用法からすれば、それらは文法的に不可能である。また、経験的事実の問題として考えようとしても判然としない。私見だが、それは結局、我々はどういう事象に対して「オバマ朝青龍になる」と呼ぶべきなのかという記述の適用基準の問題に帰着するように思われる。
・永井は、「私は現に今オバマであるが、鳩山でもありえた」といった文、あるいはそれに類する文が現に使用されているという言語的な事実から、同一性の“基準”―心理的連続性(人格)と時空的連続性(物理的身体)―を担保する身体的存在者との関係が偶然的である《私=現実性一般》なる概念的存在者を導出している。
→「形而上学の本質は事実的探究と概念的探究の混同にある」というウィトゲンシュタインの誡言は忘れ去られたのだろうか。永井の論述を読み返す度に、私はある種の「懐かしさ」を感じざるをえない。
→上の文における「私」が同一性の基準を要請しないというのは文法的事実に過ぎないのであって、それを根拠として《私=現実性一般》を措定することは出来ない。
→身体的存在者との関係が偶然的である《私=現実性一般》というのは、畢竟、永井の個人的幻想(概念的構成物)に過ぎないのではないか。

さて、ここまで《私》について語ってきたわけだが、永井によれば《私=現実性一般》はまだ真の<現実性(私)>ではない。次章では、<現実性(私)>なる錯覚の内実を明らかにしつつ、《私=現実性一般》から<私(現実性)>が仮構されていくプロセスを示したいと思う。


2.《私》の適用、あるいは適用される《私》と<私>なる錯誤
・「私」という語の使用が同一性の基準に依拠することなく端的に為されるという文法的事実(もちろん他人が為す場合は除いて)は以下の事情による。以下、ウィトゲンシュタイン『哲学的考察』からの引用である。


ところで、種々の人間を中心としてとり、かつ私が理解する全ての言語の中で、私を中心とする言語は特別の位置を占めている。この言語はとりわけ適切である。私はこのことを如何に表現出来るであろうか。即ち、私はこの言語の優位性を如何に正しく言語で描出出来るであろうか。それは不可能なことである。というのも私を中心とする言語でこのことを行おうとすれば、この言語に固有な用語で当の言語を記述すれば《例外的な位置》が与えられることは何ら驚くべきことではないし、また他の言語の表現様式では私の言語は決して特別な位置を占めないからである。―<特別な位置>は適用に存しているのである。そして私がこの適用を記述する場合でも、記述は記述がそれによってなされる言語に依存するが故に、<特別な位置>は表現にもたらされないのである。そして“どの”記述が私の念頭にある当のことを意味するのか、ということも、再びその適用に依存するのである。 
諸言語の間を実際に区別するのは専ら適用である。ところで適用を度外視すれば全ての言語は等価値である。―これらの言語は全て、唯一比類のないことしか描出せず、それ以外のことを描出出来ないのである。(描出されることは、多くの中の一つのことではなく、又それへの対立物もありえない、という考察方法と、私は“私の”言語の優位性を表明出来ない、という考察方法。これら二つの考察方法はいずれも同じ結論に至るに相違ない) (*強調は筆者による)


→永井の用語法と対応させれば、《私=現実性一般(例外的な位置)》 <私=現実性(特別な位置)> となるだろう。
→誰かが「私には他の誰にもない何かがある。私の私的経験には最も重要な意味で隣人というものがいない」と主張したとき、別の誰かが「それって、“どの”私なんだい?」と応える。ここで問題になっているのが発語や記述(言語ゲーム)にあらわれない<特別な位置(私)>であることは明白だろう。
→ここで言う適用とは「ある文を自ら引き受けること」であるが、適用の「定義(記述)」と<適用(文を自ら引き受ける行為それ自体)>を混同してはならない。
→先の引用に当てはめて言うと、「私は工藤や入不二や永井や野矢etc…ではない現実性である」という記述や発語には決してあらわれない、即ち伝達不可能な<私(特別な位置)>とは“その”言語の<適用(文を自ら引き受ける行為)>に他ならない。要するに<私>の正体は、私を中心とする言語の<適用>に過ぎなかったのである。
言語ゲームにあらわれない、即ち伝達・指示・並列不可能な<適用>を現実性と思い込んでしまう…冒頭で“錯誤”と呼んだ理由がここにある。
→<適用>と現実性の差異については http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179


[結論]<私>とは様相的文脈における一人称代名詞「私」の<適用>である。


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