入不二基義『運命論側の不完全さ』について ―「現実的な必然性」の内実を剔抉する―

本稿の目的は、講談社の小冊子『本』に掲載された入不二基義『運命論側の不完全さ』で論じられている「(論理的な必然性ではない)現実的な必然性」の内実を剔抉することである。
『運命論側の不完全さ』で入不二が提出した思考実験―予め言っておけば、入不二はそれを思考実験とは認めないだろう。おそらく「実際に今この現実である」と主張する筈だが、これがレトリック或は錯覚に過ぎないことは本稿の分析が示すだろう―を検討することを通して、入不二の言う「(論理的な必然性ではない)現実的な必然性」が実際は【論理的な必然性】に過ぎないことを示したいと思う。
猶、本稿の記号[ ]は、言語に回収不可能な[事物]或は[現実]を自得して頂く為の符牒として採用されたものである。


先ず、入不二の主張を本稿の議論に必要な範囲で要約しておく。
①「(論理的な必然性ではない)現実的な必然性」とは、一つの現実の成立によって、他の可能性が完全に追い出されて無くなり、現にあるように確定していることを指す。

②私が今現に椅子に座っているとき、椅子に座らずに立っていることは論理的にも物理的にも能力的にも可能であるが、実際の現実からは「立っている」ことは完全に追い出されている。「(論理的な必然性ではない)現実的な必然性」の裏面である「現実的な不可能性」とは、これを指す。

③私が今現に椅子に座っていても、「立っている」が現実だった可能性はある。つまり、反実仮想(仮定法)の可能性が失われているわけではない。

④「Pかつ¬P」が真正の矛盾である為には、同時性や同一観点等の「(多ではない)一において」という束縛条件が必要である。そして、この束縛条件に「一つの現実」が侵入することによって他の可能的な現実が追い出される。「座っているかつ立っている」が矛盾となるのは、実際の現実と可能的な現実(反実仮想)との間ではなく、現に成立している「一なるこの現実」においてである。或は、そのような矛盾が排除されることによって「一なるこの現実」が成立する。

⑤「現に私が椅子に座っているならば、座っていることが必然であり、立っていることは不可能である」が矛盾律の一表現として飲み込まれることによって【恰も】論理的な必然性や不可能性が語られている【かのように】見えてしまうとしても、実際には論理に留まらない「現実」が侵入している。


さて、では④から検討していこう。
「座っているかつ立っている」が矛盾となるのは、実際の現実と可能的な現実(反実仮想)との間ではなく、現に成立している「一なるこの現実」においてである―と入不二は主張するが、本当にそうだろうか?
そうではない、と思われる。何故ならば―工藤庄平は今現に寝っ転がっているわけだが―現に成立している「一なるこの現実」において工藤庄平が今現に寝っ転がっているという端的な事実は「工藤庄平は今現に座っておりかつ立っている」という文が矛盾していること(通常は無時間的な論理的真理と見倣されるだろう)とは独立・無関係であるから。
「私は今現に座っておりかつ立っている」という文について言えば、その文における「私」が誰を指しているのか「今現に」とはいつ・どの今なのか全くわからなくても矛盾していると見倣されるだろう。つまり、ここで問題になっている「私」や「今現に」はあくまでも【任意の】それであり、入不二の言う束縛条件―ドメインの同一性(論理的条件)―さえ満たされていれば矛盾は成立するのだ。このことは入不二の主張―「座っているかつ立っている」は現に成立している「一なるこの現実」において矛盾となる。或は、そのような矛盾が排除されることによって「一なるこの現実」が成立する―に対する決定的な反証になると思われる。
入不二の主張―この束縛条件に「一つの現実」が侵入することによって他の可能的な現実が追い出される―に反して、矛盾は言語の中にのみ存在し・言語は[現実]において生成するとは言えないだろうか(「そして」「仮に」等が言葉の中にしか存在しないように)。


では次に③と⑤を検討してみよう。
③で入不二は「立っている」が現実だった可能性について言及しているが、抑も③においては反実仮想「私は今現に椅子に座っているわけだが、もし私が今現に立っているならば、そのとき私が椅子に座っている・立っていない・沖縄の海で泳いでいる・プラハで寝っ転がっているetcことは不可能である(立っていることは必然的である)」だけではなく、以下の如き偶然命題「私は今現に椅子に座っているわけだが、今現に私が寝っ転がっている・プラハでビールを飲んでいる・新宿駅西口で立っているetcことも現実であり得た」や不可能命題「私は今現に椅子に座っているわけだが、私が椅子に座っているときに椅子に座っていない・立っている・沖縄の海で泳いでいる・プラハで寝っ転がっているetcことは不可能である」も構成し得る筈である。
加えて、上記の文について言えば、それらの文における「私」が誰を指しているのか「今現に」とはいつ・どの今なのか全くわからなくても論理的に無矛盾であると見倣されるだろう。つまり、ここで問題になっている「私」や「今現に」はあくまでも【任意の】それであり、入不二の言う束縛条件―ドメインの同一性(論理的条件)―さえ満たされていれば無矛盾は成立するのだ。このことは入不二の主張⑤に対する決定的な反証になると思われる(或る文が真・偽であること/或る文が論理的に無矛盾である・矛盾していることを混同する勿れ)。
入不二の主張―実際には論理に留まらない「現実」が侵入している―に反して、「(論理的な必然性ではない)現実的な必然性」は【恰も】[事物]や[現実]について言及しているかのように【見せかけて】はいるが、実際には【論理的な必然性(文法的真理)】の確認作業に過ぎないのではないか。


では最後に①と②を検討してみよう。
私が今現に椅子に座っているとき、私が立っていることが今現に現実である可能性が消失している―と入不二は主張する。とはいえ―僕は今現に自室でこの文章を書いているわけだが―今現に僕が自室でこの文章を書いているとき、今現に僕が自室で寝っ転がっている・腕立て伏せをしている・風呂に入っているetcことが現実である可能性が消失しているというのは極めて胡乱で信じ難い(というか全くありそうにない)ことに思える。
「一つの現実の成立によって、他の可能性が完全に追い出されて無くなり」といった表現から察するに、入不二は様相に対してマイノング的な解釈(と僕は考えるわけだが)を与えているのかもしれない。とはいえ、ここで「実際の現実から完全に追い出された可能性」などという代物を仮構しなければならない理由は存在しないように思われる。
以前ここ http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20121031/1351637369 でも触れておいたが、入不二が何故このような―端的に馬鹿げた―主張をするのか、理解に苦しむ。


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