入不二基義『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』を解消する

①入不二さんは本書の中で「現にあることそれ自体は内容・様態ではない」と強調しておられます。
とはいえ、入不二さんの仰る内容・様態が専ら概念の水準で問題にされているのか、或は実体(cf.本書275頁)の水準も含んでいるのか、本書を読む限りでは不明瞭だと言わざるを得ません。
例えば、本書35頁で「私の様態―身体・性格・記憶など―を私から切り離していく思考実験」が持ち出されますが、『省察』でコギトを決行する「私」が猜疑心の強い身体的存在者であるデカルトその人でしかなかったように、この思考実験を実体(実在)の水準で受け取る事は出来ないように思われます。
つまり、認識や体験や思考に回収不可能な実体(実在)の水準で[工藤庄平なる身体から開けた生]とか現実―私自身は[現実=諸事物のネットワーク]と考えております―は特定の在り方をしてしまっているわけですが、抑も実体(実在)の水準においては様態(特定の在り方をしてしまっている事)と現にある事それ自体の区別が成り立たなくなるのではないでしょうか。更に言えば、無内包の現実と内容・様態の区別という捉え方自体が人為的なもの・言語の見せる夢(哲学的妄想)に過ぎないのでは。
以上、入不二さんのお考えを伺いたく存じます。




②入不二さんの仰る「現実的な必然性」について質問させてください。
本書101頁の真ん中辺り、「前半の『Pならば』は〜」から始まる段落を参照して頂きたいのですが、「前半の『Pならば』は『Pが現実であるならば』『Pが実際に真であるならば』と考える事が出来る」と書いてありますね。しかしこのような書き方では、このPが出来事の生起を意味しているのか、それとも言明を指しているのか、私にはよく分かりません。
虚心坦懐に読めば、『Pが現実であるならば』は『出来事Pが現実に生起するならば』、そして『Pが実際に真であるならば』は『言明Pが現実に真であるならば』という事でしょう。言明が生起する、とか、出来事が真である、というのはオカシナ物言い(言葉の誤用)ですからね。
そうすると、入不二さんの仰る「Pが現実であるならば、Pは現実的に必然である」とは『出来事Pが現実に生起するならば、言明Pが現実に真である事は必然である』『言明Pが現実に真であるならば、出来事Pが現実に生起した事は必然である』という事になります。言うまでもなく、これは出来事Pと言明Pの間に成立する概念的な必然性―別の言い方をすれば文法的真理―に過ぎないので、「現実的な必然性」を或る種の形而上学的事実として提示しようとする入不二さんの目論見は見当違いという事になりますが、この点、入不二さんはどのようにお考えでしょうか。


〔予想される答弁:では、ご質問にお答えします。私は先程あなたが引用した箇所(本書101頁)で「現実的に他の可能性が無いことによって、一つの現実が必然となる」と書いています。
要するに、私の言う「現実的な必然性」は、あなたがご指摘になった「出来事と言明の間に成立する概念的な必然性」ではないのですよ〕


オカシイですね。抑も「現実の過去・現在は唯一つしか無い事」換言すれば「現実の不可避性」から「現実の過去・現在が必然である事」を導き出せないからこそ、出来事と言明の間に成立する概念的な必然性が密輸入されてしまった―これが意図的なものかどうかは問わないでおきます―のではないか・・・というのが私の質問の眼目なのですから。
例えば、福島の原発事故が起こった事は動かせません(現実の不可避性)が、だからといって我々はあの事故が必然であるとは【言わない】でしょう。
序に言えば、「現実的に他の可能性が無くなっている事【によって】一つの現実が現に成立している」という入不二さんのご見解ですが、私には単なるお伽話としか思えません。
さて、私は現に今座っているわけですが―入不二さんのご見解では、私が現に今座っていなかったり・立っていたり・スキップしたり・通り魔に撲殺されたり等々の可能性が無くなっている事【によって】私が現に今座っているわけですね・・・ここで我々は自分たちが言葉に踊らされているのではないか?と自問自答してみる必要があるのでは。




③本書の第23章「遡及的な祈り」の現在について質問させてください。
ここで入不二さんはダメットの「遡及的な祈り」の挿話に対して様々な読み方を提示しておられますが、どういうわけか我々にとって最も自然だと思われる読み方には言及しておられないようです。
このような状況に見舞われた場合、我々は自分の家族が生きて帰ってくる事を願って祈るのであり、「過去に決定済の事柄が未来で望ましい結果として判明する(cf.本書288頁)」事や「神が事故の起こるその時点で息子を溺死しないようにしてくれている(cf.本書290頁)」事を願って祈るわけではないでしょう。
勿論、事物の在り方からしても、船が沈没したその時点で息子が死んでいるなら彼が生きて帰ってくる事はあり得ないわけですが、事故情報が誤りで彼がその時点で生きていても、家族の元へ辿り着く間に心臓麻痺や鮫に喰われるとか車に轢かれて死ぬ事等々もあり得るわけですよね。
我々は自分の家族が生きて帰ってくる事を願って祈る、過去に拘泥する暇も無いままに未来へ向けて祈るのではないでしょうか。ここには入不二さんの仰る「二つでありながら唯一であるような現在(本書290頁)」などという意味不明な代物を持ち出す余地は無いと思いますが、入不二さんのお考えを伺えれば幸甚です。