魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』についてのメモ

テーラワーダの教説によれば、涅槃=覚者のみが認識しうる<対象・領域>という事らしいが、これは嘗て釈尊が覚知した?筈の<何か>と現今の修行者が覚知する?<何か>の同一性(或は)連続性を担保する為に案出された「物語」に過ぎないのではないか。
翻って、仮に涅槃が修行者の私秘的な体験だとするならば、抑も釈尊と他の修行者たちとの間に連続性を求める事は覚束なくなる(ex.悟りを巡る言説の乱立)。
この点、魚川氏はどのように考えておられるのだろうか?


②木村泰賢〜魚川氏の言うところに反して、蚕の変態と転生のアナロジーは成功していないように思われる。つまり、前者においては虫体の時空的連続性が保持されているのに対し、後者では「認知のまとまり、継起する作用の連続が、衆生の死後にはその作用を引き継いで、また新しい認知のまとまりを作る」と言われている事からも解るように、或る経験我Aが死んでから→Aの業を引き継いだ新しい経験我Bが作られるプロセス→において時空的連続性が保持されているかどうかは全く判らないからである。
抑も魚川氏やテーラワーダの人達は何を根拠に件のプロセスが「ある」事を確証するつもりなのだろうか?
確証も論証も出来ないと言うのであれば「講釈師見てきたような嘘をつき」と言われても致し方あるまい。


テーラワーダの僧侶が語る「名色が継起し続けるプロセス」としての輪廻(同書98頁)と転生に関する教説を含む輪廻思想との関係が突き詰めて考えられていない。魚川氏は両者を釈尊に帰しているようだが。