マルクス・ガブリエル『神話・狂気・哄笑』への質問

①本書40頁の「絶対的無規定性」―言語或は規定性の生成それ自体の無規定性と言い換えても良いと思いますが―について質問させてください。
私見では、件の無規定性は嘗てソール・クリプキウィトゲンシュタインを論じた著作のメインテーマと重なり合っているように思われます。
ここでクリプキの言う「私がプラスを意味している事とクワスを意味している事を区別するような、私に関する<事実>は存在しない」を貴方の言う「<世界>は存在しない」にパラフレーズしてみるのも一興でしょう。
とはいえ、クリプキにおいては件の無規定性が人間における自然の事実性としての生活形式に根差していると考えられているのに対し、貴方の議論では「思考以前の<存在>」なる代物―超越論的な何か―が持ち出されるわけです。
ここでお尋ねしたいのですが、シェリング〜貴方の言う<存在>が超越論的お伽話【ではない】事を貴方は如何にして「知った」のでしょうか?


②貴方は「反省の有限性」や「認識論的主体の不透明性」を強調なさる一方で、「生とは、自らを対象化するこのプロセスそのものであるという主張さえなされうる(cf.本書144頁)」とも主張しておられますね。しかしながら、これは我々が「我々自身の制作によるものでない限りの世界(cf.本書168頁)」―僕なら[現実=諸事物のネットワーク]と言ってみるところですが―の一部であり・生涯の約三分の一を睡眠に費やす動物であり・日常生活の大半を「高階の反省」無しに営んでいるという事実を等閑視している点で、極めて狭隘な人間観だと言わざるを得ないのではないか。
付言しますと、我々と「(貴方が言うところの)枠組み」を共有しないものたちが貴方の世界像において居場所を持ち得るのかどうか、僕には理解し難いわけです。

入不二基義『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』を解消する

①入不二さんは本書の中で「現にあることそれ自体は内容・様態ではない」と強調しておられます。
とはいえ、入不二さんの仰る内容・様態が専ら概念の水準で問題にされているのか、或は実体(cf.本書275頁)の水準も含んでいるのか、本書を読む限りでは不明瞭だと言わざるを得ません。
例えば、本書35頁で「私の様態―身体・性格・記憶など―を私から切り離していく思考実験」が持ち出されますが、『省察』でコギトを決行する「私」が猜疑心の強い身体的存在者であるデカルトその人でしかなかったように、この思考実験を実体(実在)の水準で受け取る事は出来ないように思われます。
つまり、認識や体験や思考に回収不可能な実体(実在)の水準で[工藤庄平なる身体から開けた生]とか現実―私自身は[現実=諸事物のネットワーク]と考えております―は特定の在り方をしてしまっているわけですが、抑も実体(実在)の水準においては様態(特定の在り方をしてしまっている事)と現にある事それ自体の区別が成り立たなくなるのではないでしょうか。更に言えば、無内包の現実と内容・様態の区別という捉え方自体が人為的なもの・言語の見せる夢(哲学的妄想)に過ぎないのでは。
以上、入不二さんのお考えを伺いたく存じます。




②入不二さんの仰る「現実的な必然性」について質問させてください。
本書101頁の真ん中辺り、「前半の『Pならば』は〜」から始まる段落を参照して頂きたいのですが、「前半の『Pならば』は『Pが現実であるならば』『Pが実際に真であるならば』と考える事が出来る」と書いてありますね。しかしこのような書き方では、このPが出来事の生起を意味しているのか、それとも言明を指しているのか、私にはよく分かりません。
虚心坦懐に読めば、『Pが現実であるならば』は『出来事Pが現実に生起するならば』、そして『Pが実際に真であるならば』は『言明Pが現実に真であるならば』という事でしょう。言明が生起する、とか、出来事が真である、というのはオカシナ物言い(言葉の誤用)ですからね。
そうすると、入不二さんの仰る「Pが現実であるならば、Pは現実的に必然である」とは『出来事Pが現実に生起するならば、言明Pが現実に真である事は必然である』『言明Pが現実に真であるならば、出来事Pが現実に生起した事は必然である』という事になります。言うまでもなく、これは出来事Pと言明Pの間に成立する概念的な必然性―別の言い方をすれば文法的真理―に過ぎないので、「現実的な必然性」を或る種の形而上学的事実として提示しようとする入不二さんの目論見は見当違いという事になりますが、この点、入不二さんはどのようにお考えでしょうか。


〔予想される答弁:では、ご質問にお答えします。私は先程あなたが引用した箇所(本書101頁)で「現実的に他の可能性が無いことによって、一つの現実が必然となる」と書いています。
要するに、私の言う「現実的な必然性」は、あなたがご指摘になった「出来事と言明の間に成立する概念的な必然性」ではないのですよ〕


オカシイですね。抑も「現実の過去・現在は唯一つしか無い事」換言すれば「現実の不可避性」から「現実の過去・現在が必然である事」を導き出せないからこそ、出来事と言明の間に成立する概念的な必然性が密輸入されてしまった―これが意図的なものかどうかは問わないでおきます―のではないか・・・というのが私の質問の眼目なのですから。
例えば、福島の原発事故が起こった事は動かせません(現実の不可避性)が、だからといって我々はあの事故が必然であるとは【言わない】でしょう。
序に言えば、「現実的に他の可能性が無くなっている事【によって】一つの現実が現に成立している」という入不二さんのご見解ですが、私には単なるお伽話としか思えません。
さて、私は現に今座っているわけですが―入不二さんのご見解では、私が現に今座っていなかったり・立っていたり・スキップしたり・通り魔に撲殺されたり等々の可能性が無くなっている事【によって】私が現に今座っているわけですね・・・ここで我々は自分たちが言葉に踊らされているのではないか?と自問自答してみる必要があるのでは。




③本書の第23章「遡及的な祈り」の現在について質問させてください。
ここで入不二さんはダメットの「遡及的な祈り」の挿話に対して様々な読み方を提示しておられますが、どういうわけか我々にとって最も自然だと思われる読み方には言及しておられないようです。
このような状況に見舞われた場合、我々は自分の家族が生きて帰ってくる事を願って祈るのであり、「過去に決定済の事柄が未来で望ましい結果として判明する(cf.本書288頁)」事や「神が事故の起こるその時点で息子を溺死しないようにしてくれている(cf.本書290頁)」事を願って祈るわけではないでしょう。
勿論、事物の在り方からしても、船が沈没したその時点で息子が死んでいるなら彼が生きて帰ってくる事はあり得ないわけですが、事故情報が誤りで彼がその時点で生きていても、家族の元へ辿り着く間に心臓麻痺や鮫に喰われるとか車に轢かれて死ぬ事等々もあり得るわけですよね。
我々は自分の家族が生きて帰ってくる事を願って祈る、過去に拘泥する暇も無いままに未来へ向けて祈るのではないでしょうか。ここには入不二さんの仰る「二つでありながら唯一であるような現在(本書290頁)」などという意味不明な代物を持ち出す余地は無いと思いますが、入不二さんのお考えを伺えれば幸甚です。

魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』についてのメモ

テーラワーダの教説によれば、涅槃=覚者のみが認識しうる<対象・領域>という事らしいが、これは嘗て釈尊が覚知した?筈の<何か>と現今の修行者が覚知する?<何か>の同一性(或は)連続性を担保する為に案出された「物語」に過ぎないのではないか。
翻って、仮に涅槃が修行者の私秘的な体験だとするならば、抑も釈尊と他の修行者たちとの間に連続性を求める事は覚束なくなる(ex.悟りを巡る言説の乱立)。
この点、魚川氏はどのように考えておられるのだろうか?


②木村泰賢〜魚川氏の言うところに反して、蚕の変態と転生のアナロジーは成功していないように思われる。つまり、前者においては虫体の時空的連続性が保持されているのに対し、後者では「認知のまとまり、継起する作用の連続が、衆生の死後にはその作用を引き継いで、また新しい認知のまとまりを作る」と言われている事からも解るように、或る経験我Aが死んでから→Aの業を引き継いだ新しい経験我Bが作られるプロセス→において時空的連続性が保持されているかどうかは全く判らないからである。
抑も魚川氏やテーラワーダの人達は何を根拠に件のプロセスが「ある」事を確証するつもりなのだろうか?
確証も論証も出来ないと言うのであれば「講釈師見てきたような嘘をつき」と言われても致し方あるまい。


テーラワーダの僧侶が語る「名色が継起し続けるプロセス」としての輪廻(同書98頁)と転生に関する教説を含む輪廻思想との関係が突き詰めて考えられていない。魚川氏は両者を釈尊に帰しているようだが。

2013/7/4 の小話

Y氏とK氏は銀座を散歩しながら話をしている。
Y氏「ここは銀座一丁目―さっき『ホテルモントレラ・スールギンザ』を通り過ぎたのを覚えている―だよね。まあ、それはともかく・・・君には黙っていたけど、十分くらい前かな、いきなり左手が痛くなったんだよ。でも、その左手は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、モスクワ在住の大工ウラジミール・ソコロフ氏の左手だったんだ。そのとき彼はカナヅチで自分の左手を叩いたんだよ。そして、そのとき僕は「痛い!」と叫んでしまったんだけど、その叫び声を出 した口は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、リオデジャネイロ在住の大学生フランシスコ・アイマール君の口だったんだ。そのとき彼は友人とフットサルをしていたんだが、別に誰かに蹴られたりしたわけじゃない。それで、そのとき僕にはエジプトの?スフィンクスらしきものが見えていたんだけど、それを見ていた眼は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくてフランスからの旅行者フランソワ・ジダン氏の両眼だったんだ。どうだろう、この話・・・君は信じてくれるかい?」

K氏「ふうん、そんな事が本当に起こったのなら凄い話だね。だけど、そんな事が『あり得る』かどうか、或は僕が君の話を『信じる』かどうか以前に、抑も(僕も含めて)第三者が君の話に意味を見い出せるかどうか甚だ疑問だな。というか、実際は君自身も自分の言っていることがよく解っていないんじゃないか。君が冗談かホラを言っている(それともオツムがやられてしまったのか・・・)なら話は別だが。じゃあ、とりあえず、幾つか質問させてもらうよ。
①今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故かつて(十分くらい前に)自分が今君が話してくれたような状況にあったことを【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えている】からだ」と答えても何に もならないよね。例えば(通常)或る人が「僕は東京タワーを【見ている】のだ」と主張する場合、彼以外の第三者がその主張の真偽をチェック出来る。彼の視線が東京タワーに向いているか、彼が見ているのは東京タワーではなく東京タワーの写真なのかどうか、彼が自分の想像表象と[実物]の―彼や第三者が視認し得る―東京タワーを取り違えていないかどうか等々。もし第三者によるチェックが【原理的に】不可能であるとすれば、その事柄については「それが生起したこと」と「それが生起したと或る人が【思い込んでいる】こと」を区別出来ないんじゃないかな。だから、そんな代物はゲームの指手にはならないし、なり得ないよね。
②(質問①に関連して)今の君―僕から見れば、Y氏ということに なるけど―は何故ソコロフ、アイマールジダン各氏の個人情報とそのとき彼らが置かれていた状況を【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えているから】だ」とか「かつて(十分くらい前)の僕がそれらの状況を【見ていた】からだ」と答えても何にもならないよね。仮に或る人が「僕は昨日東京タワーを見たのを覚えている」と主張したとしても、それが記憶違いだった―覚えていると【思い込んでいた】が実際は違っていた―ということも『あり得る』わけだし、君の言う状況が【原理的に】第三者によるチェックを受け付けないものであるなら、さっきと同じ話になる。そして、【本当に】【そのとき】君がそれらの状況を【見ていた】のだとすれば、君の言う?ジダン氏の視線と 君の言う?スフィンクスらしきものとの関係と【そのとき】銀座を闊歩していたY氏なる身体との繋がりに加えて、それら全てと今の君―僕から見れば、Y氏なる身体的存在者なのだが―との関係(言うまでもなく【それら一連の記憶】も含めて)は、第三者によるチェックが「可能な」ものでなければならない。記憶と思い込みの違いは別にしても、そうでなければ又さっきと同じ話になってしまうからね。
要するに、こういうことかな。或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】を前提・含意している、と。別の言い方をすれば、或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る 」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である、ということ。まあ、他にもツッコミたい所はあるんだけど・・・そんなことより鮨でも食べに行かないか? せっかく銀座まで来たんだから」

Y氏「そうしよう。小腹も空いてきたことだし。この辺で良い店でも知ってるのかい?」

K氏「『次郎』にでも行こうか。君のおごりで」

森岡正博さんの論文 「生まれてこなければよかった」の意味 についてのメモ

森岡正博さんの論文はコチラ http://www.lifestudies.org/jp/umarete01.htm へ。


森岡さんは「生まれてこなかった場合には【生まれてこなかった状態を把握する私というものが存在しない】のだから、それが【どういう状態であるのかを知り得る】者は誰ひとりいないことになる。従って、生まれてきたことと生まれてこなかったことを比較することは原理的に不可能であるように思われる。そして、もしそれが不可能であるならば、抑も『生まれてこなければよかった』とは言えない筈である」と言うが、これは【認識論的様相】と【存在論的様相】を混同しているように思われる。
森岡さんの見解に反して、『生まれてこなければよかった』が【自らが生まれてこなかった状態を把握・認識し得るか否か】を含意しないことは明らかだろう。
(認識論的様相「自分が生まれてきたことを知り得るか否か」と存在論的様相「私が生まれないこともあり得たか否か」の文法的差異について考えてみよ)
森岡さんの言う「存在と非存在の比較不可能性」は【存在論的】な問題なのである。



森岡さんは「『生まれてこなければよかった』とは、『私が生まれてくるという出来事が過去において起きなかった』という歴史を持つ世界が、私の存在しない今ここでありありと実現することを、私が今ここで心から欲することであり、これが『生まれてこなければよかった』という命題の【正確な】意味である」と言うが、この解釈は牽強付会ではないか。
『生まれてこなければよかった』という様相文から「私が生まれてこなかった可能世界」や「そのような可能世界が私のいない今ここで実現すること」を仮構してしまうのは【哲学者】であって、『生まれてこなければよかった』と考える【市井の人々】ではないだろう。
率直に言って、僕は森岡さんの言う【正確な】意味―【様相論理に従えば】『Pは可能である』は『Pが真である可能世界がある』に還元出来る―が様相に対する根本的な誤解に基づいているという意味で、正確どころか不適切で誤った理解だと考えている。

さて、では、件の牽強付会な様相解釈―様相は可能世界を含意する、換言すれば、様相文は平叙文の量化に還元出来る―が仮構されるプロセスを描出してみよう。


①「バラク・オバマが生まれてこないこともあり得た」という様相文を例にすると、
→②様相論理に従えば「バラク・オバマが生まれてこなかった可能世界がある」という平叙文に変換される。
→③バラク・オバマは既に存在してしまっているので、現実の事象系列に「バラク・オバマが生まれてこなかった」を組み込むことは不可能である。とはいえ、これは「様相論理の公理系S5」に基づく【論理的な不可能性】―或る世界において生起しなかった過去をその世界の事象系列に組み込むことは【出来ない】―に過ぎない。加えて、
→④我々は「世界に帰属していない過去・事象」なる代物について何ら明確な概念を持っていない。従って、
→⑤「バラク・オバマが生まれてこなかった」過去を持つ【別の=可能 世界】が存在することになってしまう―これは我々の合理性を満足させる為に導入(仮構)されたもの、つまり論理的に要請された概念装置と考えられる―わけである。


哲学者の十八番「君たちに『○○』という命題の【本当の】意味『✖✖』を教えてあげよう」論法に反して、僕は様相文を平叙文の量化に還元することは【出来ない】―当に様相文は平叙文【ではない】という理由で―と考えている。
前に別のところ http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120207/1328617871 でも書いたが、ポイントは【論理的無矛盾性と言明可能性条件に基づく様相文】と【真理条件を持つタイプの平叙文】との文法的差異にあると思う。
ともあれ、先のプロセスを見る限り、【可能世界=我々の合理性に基づいて要請された概念的構成物】と考えるのが至当ではないだろうか。

森岡さんの言う「自己充足」と違って、スピノザ的肯定=至福に様相文法は不要であろう。


*「<私>が生まれないこともあり得た」を巡る似非問題が構成されるプロセスについて
①様相的文脈における一人称の使用「私は今現にXだが、Xは存在しても私が存在しないことがあり得た」から、
→②<これ>性〜《タイプ》性https://twitter.com/nineteen_jacob/status/282196018060201984 が働いて、身体や自己意識との関係が偶然的な《私一般》なる概念が仮構されてしまう。
→③<これ>性〜《タイプ》性https://twitter.com/nineteen_jacob/status/282196018060201984 が働いて、身体や自己意識との関係が偶然的な<この私>なる概念が仮構されてしまう。
→④現存在〜指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]と単なる概念〜身体や自己意識との関係が偶然的な<私>を混同してしまう。
→⑤主体概念の内容的規定である《私一般》と<この私>、或は今概念のそれ《今一般》と<この今>は不可分かつ相補的な在り方をしているが、その理由は<これ>性〜《タイプ》性に求められるべきだろう。


中井久夫氏や永井均氏が主張する unique-I-nessとone-of-them-ness の不可分・相補性は「今」や「私」概念のみに認め得るような特異な性質ではない。<これ>性〜《タイプ》性は、我々の認識や思考を成立させている構成的原理であり・かつ前言語的な能力だと考えられる。
ここ https://twitter.com/nineteen_jacob/status/282196018060201984 で重要なのは、
①「僕は今PCの画面を見つめている」という文・言明(の意味)に回収不可能な[出来事]
②<唯一無二のこの出来事(僕は今PCの画面を見つめている)>という概念→<これ>性
③《一般・可能的な事象の一事例(僕は今PCの画面を見つめている)》という概念→《タイプ》性
上記の差異を精確に理解することであろう。


森岡正博さんの発言「命題Xが真となる任意の可能世界は命題Xの他に無数の命題を包摂しており、それらの真偽を語ることは有意味だし、この意味でこの可能世界について語ることは命題Xについて語ることには決して還元できない」を読んで、入不二氏の言う「全体」と可能世界の類似性に気づいた。
試みに、命題と【可能世界】の関係に対する森岡正博さんの見解 https://twitter.com/nineteen_jacob/status/328665880814817280
構成される【全体】や充実態としての【欠如】に関する入不二さんの主張 http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20121031/1351637369 を読み比べて頂きたい。
両者に通底する誤謬とそれらの【概念装置】が仮構されるプロセスが見えてくる筈だ。
そして、「命題Xが真となるある任意の可能世界は命題X以外の無数の命題をも包摂しており、それら無数の命題について【真偽を語ること】は【有意味】である」という主張について言えば、我々は【或る命題の真偽を語ることの有意味性】とその命題が真(偽)【である】ことの差異を理解しているし、抑も様相文『Pは可能である』や平叙文『Pは真である』からPを真にする[出来事]を【導出する】ことは出来ない―或る文・言明を真(偽)にするのは[現実]であって、可能世界やそこで生起する出来事ではない―と答えておこう(ex.「米国大統領のバラク・オバマが北海道で生まれたことは真である」という文からそれを真(偽)にする[出来事]を【導出する】ことが出来るかどうか考えてみよ)。
ポイントは http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323256140 以下の差異
①或る文が無矛盾である(矛盾している)が故に言明可能(不可能)と見倣されること
②或る文・言明が真(偽)であること
③或る文・言明(の意味)に回収不可能で、それらを真(偽)にする[現実]
にある。


*筆者の許可なき引用・剽窃・模倣等は固く禁じます(法的手段に訴えることもあり得る)。

入不二基義『運命論側の不完全さ』について ―「現実的な必然性」の内実を剔抉する―

本稿の目的は、講談社の小冊子『本』に掲載された入不二基義『運命論側の不完全さ』で論じられている「(論理的な必然性ではない)現実的な必然性」の内実を剔抉することである。
『運命論側の不完全さ』で入不二が提出した思考実験―予め言っておけば、入不二はそれを思考実験とは認めないだろう。おそらく「実際に今この現実である」と主張する筈だが、これがレトリック或は錯覚に過ぎないことは本稿の分析が示すだろう―を検討することを通して、入不二の言う「(論理的な必然性ではない)現実的な必然性」が実際は【論理的な必然性】に過ぎないことを示したいと思う。
猶、本稿の記号[ ]は、言語に回収不可能な[事物]或は[現実]を自得して頂く為の符牒として採用されたものである。


先ず、入不二の主張を本稿の議論に必要な範囲で要約しておく。
①「(論理的な必然性ではない)現実的な必然性」とは、一つの現実の成立によって、他の可能性が完全に追い出されて無くなり、現にあるように確定していることを指す。

②私が今現に椅子に座っているとき、椅子に座らずに立っていることは論理的にも物理的にも能力的にも可能であるが、実際の現実からは「立っている」ことは完全に追い出されている。「(論理的な必然性ではない)現実的な必然性」の裏面である「現実的な不可能性」とは、これを指す。

③私が今現に椅子に座っていても、「立っている」が現実だった可能性はある。つまり、反実仮想(仮定法)の可能性が失われているわけではない。

④「Pかつ¬P」が真正の矛盾である為には、同時性や同一観点等の「(多ではない)一において」という束縛条件が必要である。そして、この束縛条件に「一つの現実」が侵入することによって他の可能的な現実が追い出される。「座っているかつ立っている」が矛盾となるのは、実際の現実と可能的な現実(反実仮想)との間ではなく、現に成立している「一なるこの現実」においてである。或は、そのような矛盾が排除されることによって「一なるこの現実」が成立する。

⑤「現に私が椅子に座っているならば、座っていることが必然であり、立っていることは不可能である」が矛盾律の一表現として飲み込まれることによって【恰も】論理的な必然性や不可能性が語られている【かのように】見えてしまうとしても、実際には論理に留まらない「現実」が侵入している。


さて、では④から検討していこう。
「座っているかつ立っている」が矛盾となるのは、実際の現実と可能的な現実(反実仮想)との間ではなく、現に成立している「一なるこの現実」においてである―と入不二は主張するが、本当にそうだろうか?
そうではない、と思われる。何故ならば―工藤庄平は今現に寝っ転がっているわけだが―現に成立している「一なるこの現実」において工藤庄平が今現に寝っ転がっているという端的な事実は「工藤庄平は今現に座っておりかつ立っている」という文が矛盾していること(通常は無時間的な論理的真理と見倣されるだろう)とは独立・無関係であるから。
「私は今現に座っておりかつ立っている」という文について言えば、その文における「私」が誰を指しているのか「今現に」とはいつ・どの今なのか全くわからなくても矛盾していると見倣されるだろう。つまり、ここで問題になっている「私」や「今現に」はあくまでも【任意の】それであり、入不二の言う束縛条件―ドメインの同一性(論理的条件)―さえ満たされていれば矛盾は成立するのだ。このことは入不二の主張―「座っているかつ立っている」は現に成立している「一なるこの現実」において矛盾となる。或は、そのような矛盾が排除されることによって「一なるこの現実」が成立する―に対する決定的な反証になると思われる。
入不二の主張―この束縛条件に「一つの現実」が侵入することによって他の可能的な現実が追い出される―に反して、矛盾は言語の中にのみ存在し・言語は[現実]において生成するとは言えないだろうか(「そして」「仮に」等が言葉の中にしか存在しないように)。


では次に③と⑤を検討してみよう。
③で入不二は「立っている」が現実だった可能性について言及しているが、抑も③においては反実仮想「私は今現に椅子に座っているわけだが、もし私が今現に立っているならば、そのとき私が椅子に座っている・立っていない・沖縄の海で泳いでいる・プラハで寝っ転がっているetcことは不可能である(立っていることは必然的である)」だけではなく、以下の如き偶然命題「私は今現に椅子に座っているわけだが、今現に私が寝っ転がっている・プラハでビールを飲んでいる・新宿駅西口で立っているetcことも現実であり得た」や不可能命題「私は今現に椅子に座っているわけだが、私が椅子に座っているときに椅子に座っていない・立っている・沖縄の海で泳いでいる・プラハで寝っ転がっているetcことは不可能である」も構成し得る筈である。
加えて、上記の文について言えば、それらの文における「私」が誰を指しているのか「今現に」とはいつ・どの今なのか全くわからなくても論理的に無矛盾であると見倣されるだろう。つまり、ここで問題になっている「私」や「今現に」はあくまでも【任意の】それであり、入不二の言う束縛条件―ドメインの同一性(論理的条件)―さえ満たされていれば無矛盾は成立するのだ。このことは入不二の主張⑤に対する決定的な反証になると思われる(或る文が真・偽であること/或る文が論理的に無矛盾である・矛盾していることを混同する勿れ)。
入不二の主張―実際には論理に留まらない「現実」が侵入している―に反して、「(論理的な必然性ではない)現実的な必然性」は【恰も】[事物]や[現実]について言及しているかのように【見せかけて】はいるが、実際には【論理的な必然性(文法的真理)】の確認作業に過ぎないのではないか。


では最後に①と②を検討してみよう。
私が今現に椅子に座っているとき、私が立っていることが今現に現実である可能性が消失している―と入不二は主張する。とはいえ―僕は今現に自室でこの文章を書いているわけだが―今現に僕が自室でこの文章を書いているとき、今現に僕が自室で寝っ転がっている・腕立て伏せをしている・風呂に入っているetcことが現実である可能性が消失しているというのは極めて胡乱で信じ難い(というか全くありそうにない)ことに思える。
「一つの現実の成立によって、他の可能性が完全に追い出されて無くなり」といった表現から察するに、入不二は様相に対してマイノング的な解釈(と僕は考えるわけだが)を与えているのかもしれない。とはいえ、ここで「実際の現実から完全に追い出された可能性」などという代物を仮構しなければならない理由は存在しないように思われる。
以前ここ http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20121031/1351637369 でも触れておいたが、入不二が何故このような―端的に馬鹿げた―主張をするのか、理解に苦しむ。


*筆者の許可なき引用・剽窃・模倣等は固く禁じます(法的手段に訴えることもあり得る)。

入不二基義さんの公開原稿『無についての問い方・語り方』について 1.

以下の小論は、2011年9月17日に龍谷大学で開催された第六回ハイデガー・フォーラムで僕が配布したレジュメを再録したものである。


入不二基義さんの公開原稿『無についての問い方・語り方』については、以下のURLへ。
http://heideggerforum.main.jp/ej6data/irifuji.pdf


先ず、構成される「全体」・充実態としての「欠如」・仮想される「空白」という発想に通底する【胡乱さ】を指摘しておきたい。 
入不二によれば、言語の基本機能には二種類の差異化―『肯定による差異化』と『否定による差異化』―があり、両者は相補的である。以下、引用すると―


肯定による差異化は、「充実」の全体を指向しつつも「全体」へは行き着かない。たとえば、色の名前をいくら列挙しても、色の全体は覆い尽くせない。一方、否定による差異化は「欠如」を発生させることによってこそ、(その行き着かない)「全体」を立ち上げる。たとえば、「黒である」領域に「黒ではない」という欠如領域を加えることによって、色領域の「全体」が構成される。しかも、この二種類の差異化は互いに補完し合っている(相補的である)。一方では、肯定による差異化が指向しつつも行き着くことができない「全体」を、否定による差異化が先取り的に提供する。他方では、その「全体」を構成するための「欠如」は、肯定による差異化(命名)が埋める(潜在的には埋まっていることになる)。つまり、二種類の差異化は、欠如と全体と充実をめぐって相補的に働いている。−略−この相補的関係における「欠如」としての無は、全体を構成するために働くのであって、けっしてそれ自体が「全体」になることはない。しかもほんとうは、その「欠如」としての無も、原理的には(潜在的には)肯定形によって埋めることができる「充実態」なのである。
入不二基義『無についての問い方・語り方』)


肯定による差異化は、「充実」の全体を指向しつつも「全体」へは行き着かない―と入不二は主張する。しかし、仮にそのようなもの(全体)が存在する?として―それは入不二が主張するような「(潜在的には肯定形によって埋めることができる)充実態」或は「画定された境界線を持つドメイン(限界を持つ全体)」などという代物なのであろうか。以下の事例を検討して頂きたい。
①「黒である」領域に「黒ではない」という欠如領域を加えることによって、色領域の「全体」が構成される―と入不二は主張するが、氏の言に反して、この相補的関係において【色領域が一義的に指定されなければならない特段の理由は存在しない】ように思われる。ここで「黒ではない」何かが色でなければならないと考えるのは馬鹿げているだろう。
例えば「カンガルーである」領域に「カンガルーではない」という欠如領域を加えて有袋類領域の「全体」或は陸生動物領域の「全体」或は太陽系の全存在領域の「全体」・・・区切り方に応じて無数の「全体」が構成され得る―と考えることが出来るのではないか。
入不二の挙げた例に話を戻せば、この相補的関係において【色領域】の「全体」が構成されると考えられたのは【黒が色にカテゴライズされることを我々が理解しているから】に過ぎないと思われる。事柄に即して考える限り、そもそも『〜でない』によって構成される「全体」など存在しない―問題になり得ないという意味で―と言うべきではないか(入不二の主張に反して)。

②例えば、カンガルーは「有袋類に分類される」が、有袋類にはカンガルー「ではなくて(の他にも)」コアラやフクロネコ等がいるし、カンガルーは「陸生動物に属している」が、陸生動物にはカンガルー「ではなくて(の他にも)」秋田犬や松井秀喜等がいる。
ここで注目して頂きたいのは、否定の文法『〜ではない』と「ではなくて(の他にも)」の文法的差異である。説明の必要はないと思うが、入不二の表現に従えば、前者は『否定による差異化』、後者が『肯定による差異化』となる。語形は似ている―『ではない』と「ではなくて(の他にも)」を比較して頂きたい―が、両者の文法は全く異なる。
従って、①と同様、②においても、『〜でない』によって構成される「全体」などという代物は問題になり得ない。入不二の表現を借りて言えば、仮に我々が『肯定による差異化』を通して具体的かつ或る特定の内容を有する思考を形成する(概念構成)のだとしても、そこに『否定による差異化』が立ち上げる「(潜在的には肯定形によって埋めることができる)充実態」「画定された境界線を持つドメイン(限界を持つ全体)」などという代物を仮構しなければならない理由は存在しないのである(入不二の主張に反して)。
付言すれば、ドメインとは具体的な概念内容それ自体なのであるから、入不二の言う『〜でない』によって構成される「全体」・充実態としての「欠如」がそれ(ドメイン)を構成することは出来ない。『〜でない』によって構成される「全体」などという代物が問題になり得なかったように、具体的な概念内容によって【埋めることができる】欠如などという代物を仮構する必要もないのであるから。
猶、仮想される―精確に言えば、排中律に依拠して仮構された―「空白」も同じ遣り方で解消出来るので、割愛させて頂く。


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